(京都の松井様のホームページより引用)

http://www5b.biglobe.ne.jp/~matsui/menu.htm#tape

 

1.勇気の誦句注意;このテープは録音状態が余り良くありません
聞き取りにくい部分もありますので、テープを聞く会にご参加の方はこのページを印刷してお持ちいただきこの文と合わせてお聞き取り下さることをお勧めします。
無心の大切さ、生きていく上での重要さについて語る。昔から命がけの真剣勝負にとっても心が一番大切だといわれている。こうやって生きている刹那、刹那が真剣なのである。そんな時、心が何かにとらわれてしまっては何にもならない。
無念無想の境地でなければならない。
――――――――――ブザー―――――――――――
どんな時でも、現在あるがままの静かな気持ちでいてご覧、これが結局人生の極意。自分の心が何かにとらわれていたらおしまいだよ。だから、いつも自分の心の中をきれいにしておくこと、今自分の心が何かにとらわれていないか。
――――――――――ブザー―――――――――――
今日は人生を完全に生きる上に大切な事を教えよう。病や不運におかされるとたちまち心配したり悲観したりする。
しかもそれが人間として当然のことだと思っている、これは、厳粛に真理からいったら大間違いだ。
悲観や心配はどんな場合であってもしてはいけないことだ。不愉快や、不満を感じている時の気分はいいかい?。
100年生きてもわずかな日数の人生だ。自分の人生を短くする以外に何の効果もない。人間はこの世に一生を明るく生きるために生まれて来た。進化と向上という偉大な宇宙真理を現実化するために来た。病や不運の時は、命の力を大事にしなければならない時なのだから、何よりも命の力を強くするために心を積極的にしなければならない。
日常生活に於いて陥りやすい、心配、悲観という心の状態から抜け出すには常日頃から勇気の渙発を心がけることが 必要だ。勇気というのは「頑張ろう」じゃ無いよ、それはとらわれる心なんだ。そうじゃなくてその勇気とはどんな状態かというと、つかず離れず、怖れもしなければ怖れまいとも思わない。淡々として流れる水の如き心境、即ち晴れて良し、曇りても良し富士の山。この心境が勇気の姿だ。
山岡鉄舟は腕は出来て、鬼鉄と言われていたが人間が出来ていなかった。情け無いほど自惚れが出てきた。遂に慢心の極みで辻斬りを始めた。10人、20人と斬られる者が出てくると街で噂になり誰も夜歩く人間がいなくなった。そんなある闇夜に鉄舟は道場を抜け出して吉原八丁堀へと出かけた。丁度上野不忍池にさしかかった時に闇夜に突然人の気配を感じ いつもの型で刀を振り下ろした。しかし、その自分の得意の技を行使したにもかかわらず、いつもはある手応えがなかった。逆に相手の剣先を目前に突きつけられ後ずさりせざるを得ない状況に追い込まれた。背に腹は代えられず一歩、二歩と下がる内にとうとう池の端まで追いつめられた。しかし、それでも相手の剣先の勢いは変わらない。遂に池の中に落ちてやっとの事で命が助かった。蓮の葉の間から、やっと顔を出して池の端を見やると、「腕だけで腹が出来ていないからこのような始末になるのだ、もう少し心を練れ、心が出来りゃ少しはものになるだろう」とだけ言い残して立ち去る姿が見えた。暗闇の中では相手の面相も判らない。急いで池から這い出して後を追いかけたが、遂に見失ってしまった。それから道場に帰ったがくやしくて眠ることもできない。翌日、道場の友にこの事を相談すると「お前より強い人間はこの江戸にそんなにいるものではない、千葉周作先生ならそんな手の込んだことをせずともこの道場でお前をこらしめることはできる。後は浅井先生だけだ」。そこで、鉄舟は「それならこれから仕返しに行く」と言った。するとその友は「浅井先生はお前のように、腹が立ったらすぐかっとなるような人物ではない。いつも落ちついてとてもお前の相手ではない、やめとけ」と言った。そこで始めて鉄舟は、昨夜の自分の相手は浅井先生であったことを知りおのれの未熟さを悟った。
その後は辻斬りなどやめて人間としての修行に励み、歴史に名を残す人物になった。
これは講談の一節だが、実際この話の中には面白さ以上の真理があることを悟らなければならない。
人間が勝負をする時も、何事もなく座っている時も、常に同じ気持ちでいれるようでなければ本当に強い人間とはいえない。どんなときにでも、とらわれず、つかず離れず、そんな気持ちになれるのが勇気ある心である。
        ----勇気の誦句 唱和-----
さあ、たった今から本当に生まれ変わるんだ。

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2.思考作用の誦句、信念の誦句

心の重大性を悟っていない人が多い。世の中の人は知らずして生きている。
心の持ち方ひとつで積極、消極の両端に分かれてしまう。
心は生命の支配権を持っている。
心はその持ち方でその人の人生を良くも悪くもする力があるというのが気が付こうが付くまいが真実だ。
生きている以上、その刹那、刹那生き甲斐のある人生に生きようとするのが、 より価値高く生きようとするのが自然なのである。
その達成のためには生きている刹那の瞬間、瞬間の心の働きをどんなことがあっても消極的にしてはいけない。
悲しい時は悲しむ、問題が眼前に現れたら悩むのが当たり前だと思うだろうが、それは当たり前ではないのだ。
そんな場合でも、どんな場合でも心を積極的にする生活を実行すると、現実において健康も運命もよい方向に働く。何故そうなるかは心と神経系統の働きを理解すれば「あっ、そうか」と納得できるはずだ。
神経系統は心の支配を受けている。
神経系統は宇宙の力を受け容れて全身にくまなく行き渡らせる働きをしており、 その働きそのものが心の支配を受けているとしたら、如何に心の持ち方、思い方、考え方が お互いの人生に重大な関係を持っているものかということが理解できるはずだ。
宇宙霊と自己との結びつきを支配しているのは心なのだ。
人間の心で思う思い方、考え方こそ人生万事を支配している。
心の持ち方一つで宇宙霊との共同活動が出来るのだ。この荘厳な事実を理解しなくっちゃいけない。
判ったらこの法則に則って生きればたちまち理想の人生に生きられる。
人生を支配する法則。
然からばこの法則はどこにあるのか。因果律、即ちこれである。
撒いた種の通りに花は咲く。善因善果、悪因悪果である。
この消息を知ってこの法則を尊重して厳格に生きていけば運命や境遇に自分の力以上のものがでてくる。
考えてもみるがよい。宇宙霊はこの宇宙全体を作るぐらいの力があるのだから、 計り知れない霊知があるということを理解しなければならない。
春夏秋冬の移り変わり。宇宙霊の計り知れざる霊知の働きである。宇宙こそ偉大なる霊知の生命体である。
私は思う。宇宙の始まりは何も存在していなかった。宇宙霊という氣体のみであったと思う。
その氣体の働きで、今の宇宙が出来たと思う。
魚は水から出されて初めて、水がなければ生きていけないこと、水の存在に気付くだろう。
我々も又宇宙霊からの力を与えられて生かされているのが事実だ。
生かさせていただいているのが事実なのだが、それが無くなった時にしかその事に気が付かないだろう。
しかし、現実はそうである。
まさに、生きている世界である。この生きている世界に我々が存在するから、我々も生きているのだ。
人がものを思ったり、考えたりするとき、その背後に宇宙霊の力が働いていることを忘れてはいけいない。
我々の人生の後ろには宇宙霊が常に活動しよう、活動しようとスタンバイしている。
自分は少しも人生が良くならないと悩んでいる人の原因は自己認証にある。
つまり自分にはそれを実現する力があると思っていないからいけないのだ。
10年前と変わらないと嘆きながら、自分には変わる力がないと思い込ませていないか。
自己認証が極めておろそかにその心に施されていると、実現できるものもできない。
誰でもひとかどの人間になれるようになっているのだ。そのように出来ているのだ。
健康も運命も生きている限りは最高に生き甲斐のある人生を生きるためにも自己認証をベストの状態にし、 常に最高の自己認証を自分に与え続けるべきである。
―――――思考作用の誦句 ―――――
悲しい時、怒りたいときに積極的な気持ちになる。
そんな時になれないのが普通ではないのだ、という事をもう一度忘れるな。


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3.自己陶冶
我々の神経系統は積極心を発動すると 健康方面だけでなく精神面でもあらゆる人生苦を排除出来る様に出来ている。
それが本来の人間の姿なのだ。その様に造物主は人間を創られたのだ。
にもかかわらず、健康や運命に問題をかかえている人の多いのはどうしたことか。
精神の力が心の力が惨めなほど弱くなっているからだ。
生活している周囲は消極的な暗示で充満している。
暗示というやつは理屈抜きでその人の判断も、感情も巻き込んでしまう。
諸君は言語も行動も現象も、周囲に積極的な暗示のない世界に生きているのだ。
しかし、信念が強くなればそんなのへいちゃらだ。
例えば、私は昔ある朝突然声が出なくなったことがある。
コーヒーをもう一杯頼もうとして「もう一杯」という言葉が出ない。「うっ」だけしか出ない。
3日後に北海道に行く予定があった。
そこで、野崎さんが私のことだから医者へ行けと言っても行かないだろうと思って友人である医者に連絡をしたらしい。とぼけた顔をして、遊びに来たような振りをしてその友人の医者が訪ねてきた。
「どうした」と言いながら私の口の中を見た。最初は笑いながら見ていたが、 やがてだんだん険しい顔になってきた。
「先生どうですか?」と家内等が訊ねると、「こりゃ、癌だ、それも相当ひどい癌だ」と言う。
「90%助かる見込みがない、仮に治って命は助かっても、声は出ないだろう」と言われた。
有名な医者にこんな風に言われたら諸君ならどうだい。
私はその時側にあった紙に「入院はしない、北海道に行く」と書いた。
すると医者は「行ったら死ぬ」と書いた。私は「俺は耳が聞こえる」と書いてやった。
そうして北海道へ行った。北海道では会場に溢れんばかりの聴衆であった。
会の責任者が「天風先生は声が出ないので講演は出来ない」と説明をした。
すると「顔だけでも見せろ」と皆が騒いだ。
それを聞いて、そこまで言ってくれるならと胆をきめて演壇へ出て行った。
クンバハカ体制をしてから「諸君!」と叫んだところ、声と共に大きな血の固まりが喉から飛び出した。
後は、話しながら血がとめどなく出てきた。
聞いていた連中も「先生、もう結構ですからお休み下さい」とみんなで止めに入った。
私は「心配するな、出ているのは俺の血だ、お前の血ではない。どうせ死ぬまでは生きているのだ。
悪い血が出てしまえば、自然に止まる。」と言ってとうとう講演を最後までした。
その夜は39度の高熱を出して寝た。それから4.5日寝ていたらすっかり良くなってしまった。
諸君なら「癌だ」と言われた途端にヘナヘナとなってしまわないかい。
君等は誰かが「あっち向け」とか「こっち向け」と命令したら 「ハイ!ハイ!」って喜んで言うことをきくかい。「何だこの野郎!」って言うだろう。
それぐらいの根性を持っていながら、暗示に対しては何でも同調して少しのためらいもない。
こんなおかしいことをおかしいと思わないおかしい事をしている。
誰にでもある本能心の中には人類の古い時代の記憶が残っている。
動物的欲望とか感情情念が多くある。古い時代は自分の命は自分で守らなきゃならない。
そんな切羽詰まったことが日常的な時代には すぐに怒ったり憎んだり妬んだりそねんだりするという事も止むを得なかった。
しかし、現代ではそんな感情は必要ないのだ。そんな感情はむしろマイナスなのだ。
私だって怒ったり、悲しむことは人並みにある。
ただ、諸君と少し違うのは、たとえ怒ってもすぐに止める。パタッと止める。
諸君は違う。一旦怒りだしたら、もうそりゃ、念を入れて怒るぜ。
猿の手に取り餅を掴ませたようなものだ。
何度もやっちゃいけないが、いっぺん動物園へ行って誰もいないときやってみたら判る。
取り餅があっちに付き、こっちに付きどうしようもなくなる。諸君もそうだ。
何かの感情心にとらわれると今までニコニコしていた奴の顔色がころっと変わる。
本能心は肉体を守るために与えられたもので古代では必要な感情ではあるが 現代ではそんなものは必要ないのに、今だにそんな古い感情に振り回されているのだ。
この感情は必要、この感情は不必要なんていう分別は出来ない。見えないんだから。
何か諸君の心を暗くするものがあった時に考えて見ろ。
それはあなた方の本当の心が言っているのではない。本能心の中に整理されていない本能心がある。
役に立つものと害を与えるものの2つがある。人間の心の中に低級な動物的欲望がある限りは、 平静な心を乱してしまう。最初に言うた様に本来は穏やかに生きれるのだ。
その様に出来ているのだ。1960年、もうそろそろこのように生きよう。
ある時坊さんに檀家の人が尋ねた。「安心立命を心に味わって生きるにはどうしたらよろしいか」と。
「簡単なことだが、今聞いたのでは有り難みがないので7日間塩断ち、茶断ちをし、 六根清浄けがれをとって来なさい」と言われた。
いよいよその日を迎えたらご本尊の前で教えてくれた。
「安心立命を自分のものにするには"らしく"生きなさい」と答えられた。
どんなに時代が変わっても犬は犬らしく、馬は馬らしく生きている。
ところが人間は本当に人間らしく生きているだろうか。
これは本当の人間の思うこと、考えることなのかと内省してみたら判る。
"らしく"生きないから、生命力の弱った生き方になるのだ。
さて、それではどうしたら自己陶冶ということが出来るか。
よく人は「そんなことを考えたらいけない」というような教え方をするが しかしそうは簡単にいかない。
何故なら、いけないとかいいとかの善悪を判断するのは理性心なのだが理性心には、 本能心を統御する力はない。本能心はわがままな学生で、理性心は家庭教師のようなものだ。
言うことなんか聞くかい。理性心で本能心が統御出来るならば何の苦労もない。
それが出来ないから「学んでいよいよ苦しむ、極めていよいよ迷う」という心の状態になるのだ。
一つの例を話す。神経過敏な人には為になる話だから良く聞きなさい。
知り合いに青山という患者思いのいい医者がいた。
常々「死ぬ時は心臓病かなんかでコロッと逝くのがいい、癌だけは嫌だ」と言って いつもそれを気にしていた。その医者が癌で死んだ。それも偽癌だった。
つまり、いつも「癌で死にたくない」「癌で死にたくない」と気にしていたら 本当に癌になってしまった。本人が自分は癌だと信じていた。
そして死後解剖をしたら脂肪瘤が出来ているだけだった。コブだった。
神経というものは恐ろしいものだなあとつくづくその時に思った。
本人が癌だと信じているということは、 大家といわれる医者でも本能心の中のつまらぬ事を気にするよくない心が残っていたんだね。
自己というのが出来ていなかったんだね。
それでは、自己陶冶の方法を教えるが、先ず第一にすでに教わっている観念要素の更改、 積極観念養成、神経反射の調節の3つをしっかり行うことである。
次に、言葉に注意すること。「俺は酒に弱い」なんて言う言葉も良くない。
「強くない」と言えばいいのだ。私はどんな場合でもマイナスな言葉は使わない。
私はあなた方が聞いていて心が暗くなるような事を決して口にしない。
ところであなた方はどうだい。言葉はどんなに気を付けても気を付け過ぎることは無い。
言わなくてもいい言葉を随分言っているぜ。
そして同時に必要なのは態度。芝居ひとつ見ても判る。
心中に行く奴がお祭りに行くような態度をとったら芝居になるかい。
同様に祭りに行く奴が心中しに行くような態度をするかい。
態度はそのまま心に映る鏡のようなものだ。
嘘でもいいから「真理に目覚めた人間としての態度」で生きろ。
「真理に目覚めて生きよう」と思ったらもう真理に目覚めて生きているのだという プライドを持っていきりゃいいんだ。
東京へ向かって歩くつもりで歩いていればいつかは東京に着くんだ。
そんな気持ちで5年、10年やってみろ。
態度によって暗示の同化を受けちゃうんだ。
笑ってご覧、決して腹は立たない。態度と言葉、これは大切だよ。
それからもう一つ必要なことは「つぶやき」の自己暗示法である。観念で独り言を言えばよい。
「こんな事で悲しくない。こんなのに負けるものか。」と独り言をつぶやけばよいのだ。
終わりにもう一つ、良い心がけを教える。平素努めて心の中で行う想像を積極的なものにする。
始終心の中を百花繚乱とする。
日常、一寸した時間がある時でも、自分が楽しめる、喜べる、楽しみを心に描くようにする。
やらなきゃ駄目だよ。自分の命に対して親切心を出しなさい。
他人の命じゃない。子供の頃から長い間何の手当もせずきたのだからサビついてしまった心の態度を なおすのだから大変だ。失敗しても悔やまなくっていいんだ。
100編に1回でも出来りゃ、そのうちいつでも出来るようになる。
――――――――――――自己陶冶の誦句―――――――――――――
(注;上記はオリジナルテープの内容ですが、現在お聞きいただいているのは後半だけです。 そこで、後半部分を詳細にテープ起こしをしましたのでそちらを以下に記述します。) 03-02 そういうことに気が付くことが一番先なんだけどなあ。今私の考えている事、思っていること 、今までは他人のことじゃない自分のことだからこう考えるのが当たり前だと思ったけれど この当たり前だと思っていることがこりゃ本当の人間の思うことで無いかな、あるかなと、 身びいきをしないで公平な第三者の立場に立ったつもりでこれを観察しなけりゃいけない。 本当の内省検討っていうのはそういうことだ。 それをやらないばっかりにもっと本当言ったら幸せに、もっと恵まれた人間に自分というものを つまらない不幸なもので生きている場合が多いんだぜ。 結局そういうことが積もり積もって体が弱くなったり運命が悪くなったりする。 何故かというと心の力がぐんぐん、ぐんぐん弱くなってしまう。 生命の全体を力強くする為のバイブレーションの鍵を握っているのは心だっていうことは何べんも聞かされているね。 03-03 ああこりゃいけない、間違っているなと思うと同時にそれをすぐ思うまい考えまいとして思わずくれりゃいい、 考えてくれりゃいいんだけどそうはいかねえんだもの心は。 本能心という奴がぷーぷーと心の奥底で燃えている限りはその本能心の良くない奴がぷーぷーと。 しょうがないよこれは。 それを出来得るようにしようと思っていたということは心理現象に対する研究を学者がおろそかにしていた結果だと思うな。 03-04 いい悪いを決定するのは理性心だ。 けれどこの理性心という奴には本能心を統御したり、いわんや制止する力はこれから先もありませんよ。 理性心というのは早い話が何の力もなくてただ小理屈ばかりベラベラ五月雨小言みたいに言い続けている家庭教師のようなものだ。 本能心というのは始末に負えない、親の言うことも聞かない我が儘な子供みたいなものだ。その我が儘な子供をだね、のべつブツブツくだらねえ事ばかり言っている教師に躾させたって言うこと聞くもんかい。それを聞くと思っているところにあなた方の大変大きな計算違いがあるんだぜ。理性心で本能心を統御できるんならば何にも人生というものは苦労する必要ありゃしない。 03-05 いわゆる学者識者とならないまでも常識の中が生きて豊にされたらばみんなこの本能心が完全に制御出来そうなもんだがそうはいかないんだ。だからもう2000年も前から孔子がそう言っているだろう「学んでいよいよ苦しみ、究めていよいよ迷う」。良い悪いがね判れば判るほど人間苦しいんだ。例えばさ、夜寝ないことは毒だってことを知らなければ寝付かれない晩が一晩や二晩あったって気にしませんわね。まあ、寝られる晩もありや、寝られねえ晩もあるのが人間だと大らかな気持ちで考える。なまじ寝ないことによってからに今度起こるところの肉体の反応が良くない結果が来ると、要するに消耗率が倍加するということが判ると寝られないことがこりゃとってもさあ、苦しくなる。その上にまだ、寝られないことを苦にすりゃ苦にするほどに更にその損害が何層倍にもなるということが今度は判ってくるとだ、寝られないことによってその本質を考える上に心までも消耗してそうしてより一層その結果はノイローゼになって、神経衰弱になって、気違いになったなんて考えたらただ益々もって自分の心をもって自分自身をだね、闇の奥底深く沈め込んでしまう結果が来ちまうだろう、だらら、「学んでいよいよ苦しみ、究めていよいよ迷う」。 03-06 どうだい、胸にピーンと来る人いないかい。他のことでしょっちゅう神経を乱している人ありゃしない。私は心臓が弱いから心臓麻痺で死ぬんじゃなかろうかとしょっちゅう心臓ばかり考えていりゃカタカタカタカタカタカタとなる。血圧が高いから脳溢血じゃないかと思うとフアーと立った時にフラフラとする。 03-07 あれだけの偉い医者でさえそういうことになるのは結局あの人は患者を診る事は日本一だったけど自己陶冶が十分完全に出来ていなかった。まだ、本能心の中にそういうことを気にする良くない奴が残っていたんだね。 03-08 さあ、とにもかくにも本能心の中の掃除をしなきゃいけないよ、方法を教えるが・・・ 03-09 先ず第1番に必要なのは昨日までに教えられたあの3つの方法、観念要素の更改と積極観念の養成と神経反射の調節ね。ありゃもう一生懸命やらなきゃ駄目だぜ。潜在意識の中の大掃除なんだから。それと同時にあの時も一寸一言触れといたが人間が人生に生きる場合に使う言葉を、何遍言っても言い足りないと感じられるほど切迫している。こりゃもう何遍言ったって一言一言に注意しても言い足りないくらいあなた方はいくら注意してもひょっと気付かずに消極的な事を言っているんですよ。 03-10 私とあなた方がねたとえ真面目な話でなくて冗談話をしている時でも私と話をしていると何となく気分が浮き立つように積極的になるけど私の言葉はどんなことがあっても否定が無く、悲観が無く、消極がない。どんな場合であっても聞いていてあなた方があなた方の心を暗くするような事私の口から決して言わないんだ、私はあなた方の心に、魂に毒薬を飲ませたくないんだ。どんなひどい病でも私が見た時に「先生如何でしょう?」「大丈夫、安心しな、俺が治してやるからな、自分でも自分の病のこと考えない、全て病のことは全部先生に任せる、いいかい!」今まさに死のうとしている人間でもそうした言葉でもってどれだけ多くの人がよみがえっているか判らないんだぜ。 03-11 実際、言葉はどこまでも気をつけなけりゃいけない。言葉ばかりはどんなに気をつけても気をつけ過ぎってことはない。しばしばあなた方は言わなくていいことを随分言っている場合があるぜ。ちょいと何かしている時でも、ああ、あれやったらやりそこなっちまうなと思う様な時は「だめだめ」とすぐやるね。その時、同じことでも言い方あるだろ。「それ、それも方法かも知れないけどね、こうやってごらん、俺が教えるから、そうやった方がいいかも知れんよ。」こう言ってごらん。「だめだめ」というよりもいいじゃねえか。わずかな言葉ででもそこにねえ、だから心がけるべきことは言葉だ。 03-12 それと同時に必要なのは態度、これが又非常に必要なんだぜ。芝居ひとつ見てもそうじゃないか。ねえ、心中しに行く奴がだよ、お祭りに行く様な歩き方をしてたら心中に行くとは受け取れないわね。お祭りに行く奴が心中しに行くような歩き方をしてたら心中とは受け取れないのと同じようにだよ態度ってやつは直ぐに心に映るんだよ。鏡のようなもんなんだ。だからこればっかりはねえ、嘘でもいいから俺は真理に目覚めている人間だというプライドを始終心から無くさないようにしなけりゃ駄目なんだよ。「でも先生、仰ることはいちいちごもっともでよう判っております。けれどもなかなかねえ、先生。難しゅうおまんなあ、先生の様になるのは」。ガッカリしちまうぜ、やがてやってりゃ私の様になれる方法を教えているんだもの、そうしたらもう既にだよ、早い話がよ。三宮へ行って東京の方むいて歩き出したらきっと東京へ行ける筈じゃないか、やがて時来たらば。ねえ。歩いて行ったって行けるんだ、汽車に乗りゃまだ早く行けるわい。それを三宮から東京の方むいて歩き出しながら九州の方むいて歩いているような気持ちになっていたならどうなる一体、同じ着くんだって楽しみも何にもねえじゃないか。 03-13 真理に自分というものが順応して生きようていう気持ちの出た時はもうすでに真理に順応して生きている人間なんだ。そのプライド、いわゆる誇りを自分の心に持たせなきゃ。模倣も真に迫ればもう真実と同化するんだよ。そりゃ、あなた方良くない方の模倣はもう真実と同じ様にしちゃっている。いい方の模倣したらどうだね。くだらねえ人間、価値のない人間、神経過敏の人間、気の弱い人間だってことはねえ、そうでもないうちからそうだって決めちやっているもん。それをあべこべにだよ、もっと私は積極的な人間、みじめなつまらない事に心を怒らしたり、泣かしたり、恐れたりする様な価値のない心を持っている人間じゃない。私はすぐれた人間だ、昔の人間じゃないんだ今は。そういう風なプライド持たせたらどうだね。 03-14 どうだい、この言葉だけでも「よし、じゃ、たった今からぐ-んと俺は真実そのもので生きてる人間の様なプライドを心に持たせるぞ」1年、2年、3年、5年、10年、15年、20年、天風この世から去っちゃった後に「あ-、あれが天風の弟子かい、天風先生の50倍も偉く見えるなあ」と言われる。こうゆう風になれる。 03-15 態度というものがいかなる場合があっても必要。踊り一つにしたってそうじゃないか。踊る時に踊る人間の気持ちにならないで踊っていたらその踊りの中の人物があなた方の目に見る時にほんとにインスピレーション完全に出来るかい。助六踊ってそれが義仲であったり。つまり、結局態度というものがどれだけ人生の全体を支配してくれるか判らない。ところがあなた方は心も弱々しく常に生かしている結果その言葉も少しも勢いが無く態度においては本当に時によると、死んでんだか生きてんだか突っついてみなきゃ判からねえようなあわれはかなき状態でね、今にも地獄の底に引き込まれそうな顔色と態度でいるんだ。そうすると、自分自身の言葉や態度で自分自身が暗示の同化を受けちまうんだ。 03-16 これは、いつかも言った通り人間は嬉しいと喜ぶ、喜びゃ余計嬉しくなる。反対に悲しきゃ泣く、泣くと余計泣くだろう。 03-17 鏡に顔を映して「ハッハッハッハ」と笑ってごらん。笑うにつれて腹が立ってくることは絶対ないからねぇ。 03-18 そういうもんなんだよ人間の心っていうのは、これはもう反対の事ではあなた方はしょっ中経験しているもんね、怒っただけで止めちまえばいいけど怒って今度は盛んにアピールすると余計腹がたつだろう。子供なんかよくあるじゃないか。泣いている時に「どうしたの?」と聞くと余計泣き出しやがるねえ。要するにダブルステ-ジになるからなんだ。だからその喜びや楽しみはねえ大袈裟におやり、これは是非やって欲しい。悲しみや怒りってものは小袈裟にしちまわなけりゃいけないんだ。 03-19 だから態度と言葉、悟ってない時でも悟っているぷレゼント、模倣だねぷレゼントしなきゃだめよ。人と話している時ごく必要なのは人が悲観したり、あるいは心平らかならざる相談で訪れた時はぐ-んとあなた方は天風より以上の人間にならなきゃ。「そりゃいけないんだ、あんたね、つまりその観念の置き方なんだろうけどそんなことで怒っちゃっちゃ安ぽっくていけない。」「あんさんは」「いや、私はもうねえ昔はやっぱりあんたと同じようにね、この頃ね、天風先生の教え聞いてからファ-と身をかわすようになっちゃた。まあ身をかわしてごらん。怒ってりゃその怒る気持ちであなたの気持ちはいつまでたっても平らならざらんね。ス-と身をかわすんだね。」私がそうなり得てこうきたんだから。なり得なかったら言わないけどそう言っている言葉で自分がなる様な心になるんだから不思議なものですよ。ねえ。 03-20 それからもひとつ必要な方法は低級な欲望や劣等感情情念がひょいと心の中に発動して来たなあと思ったらね、ソリロキズムっていうのをやってもらいたい。「つぶやきの自己暗示法」といいましょうか。何も口にブツブツ出さなくてもいいんだよ。ソリロキズムの要領は観念で独り言言えるだろ。観念でつまりそれを否定するつぶやきを心の中でやればいい。「こんなことに腹が立つか、こんなこと悲しかない」「私しゃそれより以上すぐれた心の持ち主だ」とこういう風に自分自身が一人でその時にひとり言をつぶやくのをソリロキズム、ささやきの自己暗示法。ねえ。これが又、バカに効き目がある。 03-21 だからこうした普通の人が気がつかないこと。気がついても大して重要だと思わないことがらの中に非常に重大な結果を生み出す事柄があるって事に気がついたろう、今日。ねえ。そうすると、この心がけを実行に移していくように油断なく注意しているってえと今までの様にその場その場を刹那的な心で自分の尊い人生を価値なくしてたというような滑稽なことがなくなる。 03-23 それから、終わりにもう一つ本能心の整理に非常にいい効果のある方法がある。方法というより心がけだな。それはねえ一寸気のつかんことかも知けんけど平素努めて心の中で行う想像を積極的にするようにする。ただだた消極的にしないように。誰でもが学生をはじめとして普通の人間でも何か自分の人生の将来や現在を考える時に暗い方面からのみ考えていやしないか。もう体の弱い人なんかがねえ、ようやくもう60ぐらいになると「とても天風先生のように生きられやしないが」特に夜の寝ぎわに来るらしいな、あんな変な気持ちが「こうやってとにかく生きてられんのはどのぐらいかしら、もうそう長いことはないんじゃないかしらなあ、なんとなくこの頃は変に体の具合も悪いし・・。俺が死んじゃったら後はどんなになるだろう」といろんな事考えちゃうね。平素何事に直面した場合でも心の中に描く画像といおうかね、心の中に描くひとつの絵が薄暗いもんになるんだ、それを止めるんだ。始終心の想像の花畑は百花繚乱たるものにしなけりゃいけないんだ、ねえ。それもやはり習慣ですよ、のべつ心がけていると何事に直面しても心はしょっちゅう明るい方からばかりそれを見る様になり得るんだから、だからこの前も言った通り暇な時もあるんだから人間はねえ、たとえ2分でも3分でも静かに目をつぶりながら自分の楽しめるような、喜ぶ様な想像を心の銀幕の中に描くということは極く必要なんだ。ところがあなた方はねえ「壁に書いたもちを食って腹が大きくなる様な気持ちになれるかい」「こんなしいたげられた情けない境涯に居るのに心の中だけそんなに大平楽になった様なこと考えたって何になるんだい」とこういう気持ちだね。だからいつまでたってもうだつの上がらないあわれな人生に生きるべくされてしまう。これは貴重なことなんだぜ。たとえよしんば現実どんな病にかかっていようと、どんな悪い運命にいようとも心がそれから離れている時は全然それがあっても無きに等しいということをあなた方考えなきゃだめなんだよ。今日、明日をも知れぬ病人でもぐっと前後も知らず寝ている時はもうその人は重病人じゃありませんよ。感覚的に何にも感じていないんだもの。いわんや、悲惨な境遇の中に居ても、その中から又自分の気持ちの中にある時間内だけは晴れやかな気持ちを持たせりゃその時間内だけは晴れやかであったということになりゃせんかい。これが「平素、常に心を積極的に保つ」秘訣なんだ。そうすると、もう今後の人生は文字通り生まれ変わった様になれる、やらなきゃ駄目だよ、心がけだけじゃ、難しいこと何にもないんだもの。勿論ね、はじめの内は心がけてもひょいとやりそこないますよ、「あれ、折角あんな良いこと聞いたのにとんでもねえこと考えちゃった」それを悔やまなくっていい、又振り向け替えりゃいいじゃないか。こっち向いて考えている内にいつかあっち向いてしまったら又、こっち向けりゃいいじゃないか、あっ、あんなこと考えちゃったと思わなくていいんだから、ねえ、もう少し本当の自分の命に対して親切心出しなさい。他の人の命じゃない己が命は己がもの。 03-24 100遍やって1遍出来りゃ結構だという気持ちでやりなさい。そうすると段々100遍やって2遍になり3遍になり5遍になり、しまいにゃ100遍になる。それをやらないでいちゃだめだよ。自分で自分の心や生命に見切りをつけたらいけない。


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4.和の気持、その他
個人の日常生活に於いても、又団体組織に於いても、平和ということが大切なのだが、 そのことについて今日は考えたい。
実際に於いて、個人及び団体に於いて平和というものが実現されていない真の原因は、「和」の気持ち、即ち穏やかに、、親しみ、解け合う気持ちが我々の心の中に極めて少ないからだと断定される。
これが無いから、どんなに立派な理想を掲げても、土台が無い建物と同じで、 砂上の楼閣に等しく、平和なんぞ実現できるはずがない。
政党間の政争しかり、労組間の紛争しかりである。
先ず、自分のことばかりを考え、「和」の気持ち、即ち穏やかに 親しみ、解け合う気持ちなんぞは無い。
然し、政党や労使といった組織の間のことだけではなく、個人の生活に於いても和の心を持った 貴い心で、精神的にも高い境地で毎日を生きることが大切だ。
この事は、それ自体が貴いことなのだが、心身に様々な好影響を考える時、 ますますおろそかに出来ないことが分かる。
そればかりか、人生成功の秘訣も実は和の気持ち、即ち穏やかに、親しみ、解け合う気持ちと 密接な関係にあることに気づいていない人が多い。
論より証拠で、現実に成功し人の周囲を見ると、その周辺の人との関係が非常に理想的であることを 発見するであろう。
いつも言うように、正しい理解は徹底的に実行すべきである。
従って、日常の人生生活に於いて、どんな場合でも和の気持ちで行動し、 争いの気持ちを起こさないこと。この事を徹底して実行して欲しい。
不思議な因縁があって親兄弟となり、職場の同僚となったお互いではないか。
あだやおろそかにするべきではない。
第一に、和の気持ちを持った時と、争った気持ちを持った時とどちらの気持ちを持った時が 気分がいいか思い出して見たらすぐに分かるはずである。
これが分かったら、常に和の気持ち即ち穏やかに、親しみ、解け合う気持ちを豊かに持って 日々行動して下さい。
このように生きる生き方こそ、完璧な意味の正しい生き方であり、人のためになる生き方であり、 当然心身にとっても理想的な生き方である。
つまり、100点満点の生き方といえるので、もう、諸君は、天風会員として、 実行されていることとは信じているが敢えて、もう一度念を押してお願いする、
是非実行に励んで欲しい。


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5.天風訓言抜粋
天風師自身が、ご自分の為にまとめられた人生訓をお話しされておられます。
講演とは違い直接マイクに話しかけるスタイルでお話しされておられるので、目の前でお聞きするような親近感を感じます。
内容は御本「心に成功の炎を」第九章の一部に発表されたものです。
ただ、御本と違うのはご本人のお声でお聞きするので特別なものを感じることが出来ます。
お話の最後の部分で師が次のようにお話しされます。
「現在、只今、もう毎日毎日これでもか、これでもかと生きていかなきゃいかん。」このお言葉を師は少しかすれ気味に声をふりしぼって話されておられます。
私自身の天風教義への態度を一変させた、私にとっては忘れられない言葉です。


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6.心の態度
防衛大学生1000人を前にして先生89歳の時の講演です。
いつ何時(なんどき)何が起こるか判らない現代、心の問題について正しい理解を持つことは大切である。
私が諸君の年代にこれからお話しする内容を教えられていたなら、お国のためにもっと大きなご奉公が出来ただろうと思う。先日も突然大阪駅前である老人から話しかけられた。
「私は昔陸軍大学の学生時代に1時間ほど先生のお話を拝聴いたしました。
そのお話がその後の人生に大きな参考になりました」と言われた。
事は、自己自身の生命の問題である。
偶然の機会に聴かされたものでも、その人の人生に大いに参考になることがあるのだ。
それでは本題に入る。
心の問題とは漠然とした問題だが、ここにお集まりの皆さんも生命における心の重要性を考えたことがあるだろう。
戦前の人はこの心の重要性を戦後の人よりもっと価値高く認識していた様に思う。
現在の人は肉体の方ばかりを認識し心をおろそかにする一般的な傾向がある。
従って、今は心の重要性を理解するところから話を始める必要がある。
一回限りの人生、価値高く生きなければ意味がない。
常識としてそれは判っていても、果たして何人の人が価値高く生きて居るであろうか。
10万人に一人いるだろうか。
ほとんどの人は唯、生きてられるから生きているというような生き方をしていないか。
これから話すことを理解してたとえ信念にならないまでも観念として今後の人生において役立てて欲しい。
命を考えるときに心を考えずに肉体のことばかり考えるのは間違いに気付かずにしている間違いである。
命は目に見える肉体と目に見えない心が打って一丸となって構成されている。
心が完全でないと命そのものが不完全な結果を招く。
心と肉体と命の関係は判ったと思うが、心と肉体を結びつけているものは何か判るか。
お互いにどうして生きていられるのか。何が我々をこうやって生活せしめているのか。
喰って、たれて、寝て、起きて、呼吸して生きている。
それは、文化人も野蛮人も同じだ。それだけでどうして生きていられるのか。
当たり前と言えばそれまでだ。
心と肉体を結びつけているのは神経系統であり、これが人間を生かしている。
喰って、飲んで、たれてりゃ生きてられるのは神経系統があるからだ。
これが停止したら死だ。死んだ、即肉体が消えたとはならないだろう。神経系統が停止しただけだ。
この大切な神経系統が機能するには心の態度が大切だ。
いかなる心の態度か、「積極的」である。
命を大切に考えるのであるならば神経系統を完全に働かせる様にしなければならない。
そうでないと第一に肉体を思うように強く働かせることが出来ない。
{以下後半に続く}


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7.心身統一法
生き甲斐のある生涯を完全に生きたければ心と身体を一つにして生きなければいけない。
私も昔はどうしても目に見える肉体だけを考えて目には見えない心をあまり考えずに生きてきた。
病や運命に何らかの形で問題のある人はこれが原因である。
それは生き方の問題だ。
大切なのは人間としてあるべき生き方をしているか。
本当の人間としての生き方をしているかどうかだ。
好き勝手に感情のおもむくままに生きたのでは満足な生き方が出来るわけがない。
あなた方は幸福を得る手段としても心身統一が必要なんて気付いていない。
お金があったり、地位があったりしさえすれば幸福だと思っている人がいるが、金がある人は持たぬ者の幸せを知らぬ人であり、持てる者の不幸を味わっている。
地位もそうだ。
本当の金持ちや、地位のある人に「あなたは幸福ですか」とたずねてみるがよい。
心を正しくするという事は、この辺の消息を正しく把握して生きることである。
一見、健康に関係のない、このような心のあり方が健康をはじめ、その人の人生に大きく影響する。
長生きについても、薬や食物で長生きできるというのも間違いである。
病になれば薬を飲むのが文化人だと思っている人がいる。
ところが薬の効かない病人がいる。
その前に根本的に人間らしい生き方をしていないと効く薬も効かない。
どんなに栄養のある食事をしても生き方に間違いがあると身に付かない。と説かれます。
但し、この講演ではどのようにしたらその様な生き方が出来るかという 具体的な方法はお話しされていない。


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8.積極観念養成法防衛大学での講演テープです。

安武先生のお話

「積極的精神の解説」積極的とは一般には「強気」といった意味で使われる。
それらは消極に対する積極で相対的積極という。
天風先生のいう積極は絶対的積極で一般にいわれる積極とは違う。絶対的積極には張り合うといった気持ちがない。スポーツ選手が何とかして投手を打ち負かそうという気になるのは相対的で、 絶対的積極とは相手にとらわれない状態で心が安定して平静な状態をいう。「虚心平気」といわれる境地である。
どんな大事に直面しても心はいささかも怖れたり、慌てたりしないで、平然と対処できる態度である。
そういう気持ちになれてこそ、はじめて立派に仕事も出来人生を全うすることが出来る。
「晴れて良し、曇りても良し富士の山」であるべきである。いつも明るく朗らかに生き生きとして勇ましい状態である。
何故、積極的でなければならないのか。人間の命そのもの、生きて働く状態が積極的である。
人間を含む全ての生物の進化の歴史がそうである。宇宙の全ての活動の姿は積極的である。
人生においても積極的であることが正しい生き方である。
よりよく生き、より幸せに生きようとするなら積極的に生きる必要がある。これが人間としての本然の生き方である。
ところで、どうすれば積極的に生きられるのかあまり教えられていない。禅の方では行があり、武道家には修行がある。
いわゆる難行苦行である。普通の人には出来ない。天風先生はその実際的な方法を教えておられる。
ご自身の波乱に満ちた人生から体得された、実際的方法を編み出された。
今回は昨年に(№6テープ内容)続きその具体的方法をお教えになる。
絶対的積極を身につける方法を本日は学びとって頂きたい。

天風先生のお話。
積極的精神の実際訓練法を説明する。諸君の生涯を通じて価値高く生きることが出来る。
積極的精神がいかに大事なものであるかは気付いていると思うが、 一般の人は物質方面にのみ傾き積極的精神の生命における大切さに気付いていない。
我々の命を生かしている大事なものは何か。
お互い生きているのを当然のことの様に思っているが、これほど不見識なことはない。
もし神経系統にアンバランスをきたすと、生命の状態もアンバランスになる。
精神系統のバランスのおかげでこの命が守られている。この神経系統と心が密接な関係にある。
もし心が平静でなくなると、たちまち神経系統もバランスを失う。
畳の上には立てるが、断崖絶壁の上に立った時神経に平静が保てるかい。
雑談の時はいくらでも喋れるのに、みんなの前で演壇に立つと何を言っているのかさっぱり判らない人がいる。
いわゆる「あがる」のだ。心がいかに神経系統に影響するか判るだろう。
何もない時はともかく、一旦事あるとスイッチを入れた洗濯機のように興奮してしまう。
心が虚心平気であるかないかで、これだけの違いがある。こんな状態ではいけない。
人間として先ずどんな場合にも泰然自若としてどんなことに臨んでも平然と対処できる心を作る必要がある。
これから教える方法で少しでも早く、たのもしい自分を作るようにして、価値高い人生を生きて欲しい。
武道家は難行苦行でこの境地を求めた。
難行苦行はそれしか方法を知らなかった時代のやり方で、現代では精神科学を応用して こういう特殊な心を獲得できるはずだと考えた。
それでは今日は2つの方法を教える。
1. 暗示の感受習性を応用する。
その一つは鏡の中に自分の顔を映して、その眉間の所を見て「お前は信念強くなる」と真剣に言う。
鏡を用いる自己暗示法である。夜の寝際がよい。自分を変えるのだから真剣にやらなければならない。
「お前」でやること。自分をもう一人の自分によって変えるのだ。真剣に言わなければならない。
「お前は信念強くなる」これだけでよい。他のことは言わなくても良い。
もう一つは床の中に入ったら一切消極的なことは考えない事。夜は生命の建て直しという貴重な時間なのだ。
昼間どんなことがあろうとも、かりそめにも心の中に消極的なものは持ち込まないようにしなければいけない。
本当な何も考えないのがよい。しかし、それが出来ないのなら考えれば考える程楽しいことを考えなさい。
2. 神経の反射作用を調整して心の乱れを防ぐ方法。
何か衝動があった時それを心で受けるのでなく腹で受けなさい。
具体的に言うと、肩の力を抜き、下腹に力を入れて、肛門を閉める、これを三位一体で行う。
ショックや衝動を心で受けていては持たない。腹で受けろ。
何かドカンと来たら肩を下げて、腹に力を入れて、肛門を閉めろ。肩が上がると腹に隙間が出来る。
肛門には全ての神経の末梢がある。おぼれた人間でも尻の穴が閉まっているのなら助かる。
駆け足する時でも肛門を閉めてみろ、疲れないから。
さあ、これだけ聴いても実行しなけりゃだめだ。実行してみれば効果があるから判る。
人生はどんな場合であっても生き生きと勇ましく生きなきゃならない。
そうしてはじめて本当の人生を生きることが出来る。薄氷の上を歩くようなビクビクした生き方をしてはいけない。


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9.観念要素の更改法
天風教義で「観念要素の更改」といわれている方法を説明されておられます。
これは潜在意識の内容を人間本来の積極的でポジティブなものに替えていくための具体的方法です。
「これから教えるのは簡単だ、やりながら、寝ながら、寝ちゃっていいっていう方法だ。
寝がけにこれからいうやり方をやりながら寝ちゃっていいんだ。」と説明されます。
「理想からいえば、頭を枕に付けたら心を尊い清らかな状態にしなけりゃならない。これはやれるもんじゃない。そこで、最初の内は。床に入ったら思えば思うほど楽しいことを思えばよい。
昼間はいくら用心してもチリや垢のつくのが心だ。
夜の寝がけぐらいきれいにしろ。
どんなことがあろうとも、心を真珠のような美しい状態にして寝なさい。
せめて寝がけだけは純粋な気持ちになるように努力しなさい。
世界一立派な人間になり、世界一きれいな人間になりなさい、寝がけの時ぐらい。
わけない方法で心の改造が出来るのだ。
そうしていりゃ、何か事ある時に心の乱れが全然違う。
自分の命を守ってくれるのは心である。」と説かれています。
このテープの標題とは直接関係ないのですが、このテープの中で先生が何気なく漏らした言葉を私は大変重要だと思っています、
それは「子供は信念強いね」です、
”信念”というものの本質をついた言葉だと思っています、


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10.天風式人生観01;世間一般の人が持つ人生観とは、成功願望に過ぎないが
少し落ち着いて自分並びに自分の周囲を考えてみるのが一番良い。周囲ばかり考えてはいけないよ、自分も考えないと。自己自身を本位中心として自分の家族だけの利益・幸福のみを重点として金を作ろうとか、地位を作ろうとか、名誉を持とうとしようとか、事業をもっと成功させようとする抱負を一番人間としての人生観として尊いもののように感じて自分はいるか、いないかということを自分自身に問うてごらん。そうすると案外なるかな「あっそうだ、自分もそういう仲間の一人だ」と感じる人が多くないかい、どうだい。あなた方と同じ様な考え方で人生に生きている人がこの世の中の上層部に多いんであります。事業家や、政治家や、役人に比較的多いのであります。嘆かわしさ以上の寂しさを感じる。このような人に正しい人生真理を知っている人間がどんなに汗水垂らして人生真理を説いてみたところでそういう気持ちを持っている人にはある程度までは一応受けとられたような形になっているけれども結局は聞き流されてしまうという結果になるのが当然なのです。

02;何があるのか判らない人生に於いて
人生というものがいつも何事もなく無事平穏で息絶えるその日まで何時も春風駘蕩たる状態で続く世界ならどうごまかして一時的に自分をなだめたような考え方で生きていてもそれで良いでしょう。けれどもそうは行かないのが人生なんだからね。文字通り、無常迅速、変化変転只ならぬ、というのが実際の状態なのだから。今日、非常によい運命にいたからとして明日も又この運命で生きられるかということは保証できない。その代わりに、今日、哀れな人生に生きていても明日、まるで違った幸福な人生が来るかも知れない。

03;この様な人生観がいざという時に対応できるのか
とにかく自分が本当に「これならば」という自分自身が安心して生きられるしっかりした人生観を持たずに生きると信念無くして生きた人間が羅針盤の無い船であると同じように正確な海図を持たないで暴風雨に遭って漂流した時と同じ結果が来ちまう。何とも収拾のつかない羽目に陥ってしまう。

04;その様な心構えなど必要と考えないと思う人もいる
人々は現在自分がとにかく健康で大した悪い運命に生きていない様な時ぐらい横着になっている事はない。横着になっていることを知らないで横着になっているから一番始末に悪い。「ああ、今私は極めて呑気な気持ちで生きている。これはいけないんだ」という風に反省する気持ちなんて出てこない。自分が横着だと知らずに横着に生きているからね、そういう人間は。急に、ドカン!何かの病に冒されたらどうする。「嫌、俺は大丈夫だ」と思う思い方はこれはただ、自己を一時的になだめて、すかして、ごまかしているんだ。わたしもね、若い時はご多聞に漏れず「人生観なんては学者か識者に任せとけばいいんだ、何も自分で考えても考えられないことなんかを考えなくていいや」という風に考えていた。

05;でも、いざその様な事態に遭遇すると慌てる
大病を患ってそれからですよ、全く足元から鳥が飛び立つ様な思い方で人生を考えるようになった。人生を考えるようになったから国法を犯してでもアメリカへ飛んで行っちゃったんだから、考えなきゃ行きやしない。どう考えたって言われたら困るんですよ。こう考えたとは言えないもん。ただ、何か無し考えたんだ、何か無し、何も判らないんだから、それまでの私の頭の中はね。

06;なまじの知識、常識ではかえって自分を神経過敏にして
なんにも知らなければなんにもねえ、心配ありゃしませんよ。だから、非常に出来た人間と何にも知らない人間が一番この世の中を気楽に生きていて生半可に知っている貴方達が一番いけな言っているだろう。さあ、自分でもどうにもしょうもねえんだ、それまで寝付きが悪いなんて事なんか一編も患ったことのない人間が手に負えない神経過敏な人間になってしまって眠いから床に入っても30分も一時間も寝られないんだ。寝ないで悶々と考えているんだ。それが元で人生を考えるようになったんだ、自分で判らない自分の姿を見た時に。

07;自分でもあきれるほどの弱い人間になるもんです。
私ばかりでなく大病を患った人なら誰でも経験するあの、何とも言えない孤独感。孤独感以上の寂寞感といったらもっと判るかなあ。自分でもあきれるほどの弱い心の人間になるもんですよ。もう自分は結局この病で死ぬのかという気持ちが逐えども、払えども自分の心から消えない時、その何とも言えない孤独感、寂寞感。それまではどんな時も孤独感も寂寞感を感じたことはなかった。それが病になって、もう助からねえなあと思った時、これは御参考になるから、いつかは一編来るからあなた方にも、大病患わなくても一編必ず来るぜ。そう長い将来じゃない。早い人は来年ぐらい来る。遅くとも50年、とにかく来るよ。その時に「ああ、何時ぞや聞いたよ。思い起こせば1964年10月の29日、あの時聞いたあの気持ち、孤独感以上の寂寞感、これだなあ」ときっと感じる時があるよ。たった一人で寝床の中、周囲の家族と別れて自分だけで何だか判らない所へ行くと思えば何とも形容の出来ない寂寞感に打たれるよ。あきれるほど自分で以て「これ、俺かいなあ」って弱い心になってしまった。

08;その人間の人生観とは、行動の絶対的な規範となるもので個人個人異なるのが当然。
天風という一人の男が今言った通り普通の人が滅多に味わい得ない不思議以上の運命と長い間戦い抜いて、平然とその人生を乗り越えさせてくれた私の心、その心を作ってくれた私自身の人生の考え方なんです。誰が何と言ったって私自身には取り替えることの出来ない貴重な人生観です。何十年も私の心にこびり付いている人生観です。あなた方の心に共鳴するものを感じたらその感じたものだけ受け入れてくれればいいんです。

09;天風先生の人生観が表出した実際例では
私はねえ、行き着く迄に死んだって良い、行こうという気持ちだけで行かれないでいるよりはその旅に出て死んだ方がましだとこういう風に、まあ、ちょっと普通の人の考えられない考え方かも知れないけれども私はまじめにこう考えたんだ。

10:天風先生の人生観は
私の人生観の結論からお話しする。私はこう考える。「人生は出来得る限り歓びの時を多く自分の命に味わわせる。それが一番生き甲斐のある生き方である」。釈迦でも孔子でも、マホメットでもキリストでも本当のことを言ったらこういう気持ちが彼らの頭の中にあったではないか。それがそうあり得ない自分の力足りなさからあんな世迷い言を言い出したんじゃないか。私は世迷い言だと思っている、あの人らの言っているお経でもバイブルでもコーランの教典を読んでみても、だって出来ない事ばかり書いてあるんだもの。どのページに書いてあることでも出来ますか。出来ないから神を祈れ、神にすがれというが、アーメン、アーメンって言っていたら出来るか。般若心経読んだってそうだ、成る程、五うん皆空と照見すれば全てのことは皆空だ、それには違いない、違いないんだけれどそう思えるかい?。第一坊さんがそう思えていますか、思えていないじゃないか。

11;歓びの無いところに生き甲斐はなし。
散々考えた末、歓びの無い所には本当の生き甲斐のある人生というものはないということを感じている。忍苦の生活をしろとか、できるだけ苦しいことを堪え忍べ、私は出来ないもん。私は苦しいことは苦しい、辛いことは辛い、楽しいことがここにあって辛いことがここにある。辛いことの方には銭をよけいやるからこっちへ来い、と言われても楽しい方へ行くよ。だから、私のしていること、する事全てがみんな自分自身の命に歓びを与える事ばかり、かりそめにも自分の命に歓びを与えないことはこれから先もしません。どんないい利益を私に与えるという条件を付けても。

12;理屈ではない
5年が3年行っていても私が何億という金持って帰って来るだけのことをアメリカがしてくれます。けれども私はそれを私の心が歓ばない。だから私は行かない。歓んだらあなた方が止めたって行っちまいますよ、私は。私は私の命を歓ばせることだけが人生の目的なんだから。歓ばないんだ私の心は。世界中の金やるからアメリカなりヨーロッパへ来いって言われても行かないんだ。歓ばないんだ。あなた方なら飛んで行くだろう。私は歓ばないから行かないだけなんだ。かたくなでも、何でもないんだ。打算的な頭が無いとか、へそ曲がりと言われようと、ケツが曲がっていると言われようと歓ばなんだから行かないんだ。これは理屈じゃ無いんだ。歓ぶとか歓ばないっていうのはねえ。誰が何と言ったって私は歓ばないんだからしようがねえ。

13;幸福は真の歓びを感じた時に
考えてみて下さいよ。人間お互いはそれぞれいろいろな欲望を持ち、その欲望を具体化するが為に毎日こうやってあくせくと頭を使い体を使って慌ただしく働いたり動いたりしているんだ。勿論、その欲望はこれ又各人各様種々雑多でしょう。あるいは金が欲しいという者もあるだろうし、あるいは、いや俺は地位名誉の方が良いよとか、ある者はあの人と一緒になれりゃ良いという風な恋愛至上主義の人もあるでしょう。いろいろな区別を持つ個性的欲望のいずれもが全て結論すればそれはみんな自分自身がそれによって歓びを感じたい、味わいたいからでしょう。言い換えれば、人というものは歓びを感じた時に本当の幸福感を感じるんですよ。私は嬉しいなあと思うとき一番幸福だもん。まあ、どちらにしてもこうした事の一切を考えてみて私は人生を理論的に難しく考えて苦しむよりは率直に歓びの時を出来るだけより多くいかなる場合にも心か肉体に味わわせて生きることを人生生活の主眼とするのが命に対する最上の考え方だと考えたんです。

14;悟りを得た経過;天の声を聞く
この考え方が自分を今日まで満足に生かしてくれた大根大元になっているからこう言うんだがこういう断固たる悟りとなった動機というのがインドの修行が動機なので、しかもそれが偶発的なことが動機となって私の心を決定させたからそれを参考に話してみたい。「あなたの言った天の声というもの少しも聞こえません」「聞こえないかい」「ええ」「そんな筈は無いなあ、本当に天の声を聞こうとしてみたかい」「ええ、しょっちゅうしているんですよ、自分でも驚く程真剣にやってみるんですけど」「真剣にねえ、その時水の音は勿論、鳥の鳴く声その他一切の音も聞こえてるかね」「さあ、そいつは気が付きませんでしたなあ」「ほんとから言うとねどんな音を耳にしていても心がそれを相手にしないとその時天の声が判って来るんだよ」「えーーー!そうですか、心が相手にしなけりゃいいんですね」その翌日から言われるままに心が一切の音の相手をしないように一生懸命やってみたがこいつは駄目だ、聞くまいと思えば思う程聞こえてきやがる。こりゃ難しい行だなあ、と思ったけれども相手にしまいとすればするほどいけない。その相手にしないと思うことの方が心へどんどん食い込んでくるんだ。なかなかうまくいかない。こりゃずいぶん困ったよ。私もねえ、およそ3ヶ月ぐらいこういう状態だったなあ。半分神経衰弱に罹った。口惜しいけどどうしてもうまくいかない、しょうがないから降参しようと思ってね「なかなか、心と耳を別々に使い分けるってことは難しいことですなあ」と言ったんだ、そうするとね「そうねえ、難しいと言えば難しいねえ、しかし、易しいと言えばやさしいねえ、お前さんはその難しい方のことを考えているから難しいんだよ。まともに心と耳とを使い分けようとしてやいないかい、それじゃとても難しいぞ」こういう風に意味ありげな事を言うんでね、その意味が分からないもんだから「それは難しいですねえ、その意味は」って尋ねたんだ。「こうやって私と話をしている時耳に私の声の他にやっぱり何かの声や音が聞こえているんだけどもねえ、でも心はそれを少しも相手にしていないだろう、私の声とだけ取り組んでいるんだろう、お前の心は。それと同様の心持ちになればいいんだよ、そうすればまともに使い分けていないことになる。」「ああ、そうか」と思ったよ。言われりゃ判るからねえ、何となく判ったような気持ちになったんでそれから、ああでもない、こうでもあろうかと文字通り千思万考したっていうのが嘘でない本当で、やってみたけどどうも相変わらず駄目なんだ。そこでもう、心も根も尽き果ててフラフラして「こりゃ、難しいことやったって駄目だ、こんな事止めた天の声なんか、天の声なんか聞かなくったっていいや、今までだって天の声聞かなくったって生きてられたんだ、もう止めだ、こんな難しい事。」やけくそみたいな気分になっちまったんだ。いきなり仰向けにひっくり返って目を半眼にして空を見たんだ。日本の初秋のように晴れた空にちぎれ雲が所々フワー、フワーと漂っている。その雲の様々なのに思わず興を感じてフワーっと見入っている内にフッと気が付いてみると耳にいろんな鳥や獣や、虫の声が滝の音と共に絶え間なく聞こえていても私の心は見ている雲にフーっと繋がっている事に気づいた。全然それらのものとは離れて漂う雲の中に私の心が入って無心でいる自分に気づいたんです。何にも考えていない。あっ、これじゃねえかしらんと思ってね。刹那の悟りでしょうなあ。思った途端にボロボロ涙が出てきてね。人が居ないんですから大きな声出して泣いちゃったよ私。ああ、こういう心持ちの中に天の声というのは聞こえるんだな。聞こえました。もう、その時は駄目だ。我に帰っているからね。何も聞こえない。やっぱり駄目じゃねえか。何だかへんてこになっちゃってね。我が身で我が身が判らない気持ちになっちゃって、その帰りがけ質問したんです。経験したことをつぶさに説明したんです。「ちぎれ雲を見ている時に、フッと無心の自分に気が付いて、その時に天の声が聞こえると思って天の声を聞こうとしたら聞こえませんでした」と言ったら「それが天の声だよ」って言うから「エーッ!」「天の声というのは声なき声だよ、絶対の静寂、absolute stillbess,that is」「あっ、そうか、その絶対の音の無い世界に心が入った時が天の声を聞いた時?」「そうだよ」

14-1;天の声を聞く時心は解放されている
「そんな状態になりゃどうなるんです」「人の命の中の本然の力が沸き出るんだ」「沸き出りゃどうなるんです」「一切の全てを頼もしく自分の心が受けとってくれるような心が出来るんだ」「えっ!えっーー!」「判らないかい、今現在お前が患っていることも、現在お前の心の中に絶え間な食いついている”死にやしまいか、死にやしまいか”という心も全然消えちゃって見るもの、聞くもの全てが楽しみとなってお前の心の中に表れてくれるようになるんだ、今のお前は苦しみの方へ心が飛び込んでいって心の中でもってそれを掴まえたくない時でも無理に掴ましているようなことをやっているじゃねえか、どうだ、悟れてみれば、お前が苦しんでいたのが、自分の心の中で苦しんでいたので、本当から言ったら、病のある時の方が病の無い時より、本当の楽しみを感じられるということを感じないかい?俺がお前に初めて会った時にお前は腹を立てたなあ、その時こう言ったろう、お前が頭が痛かったり、熱があったり、何時死ぬか判らないような苦しみを持って何が幸福ですと言ってお前が俺に突っかかった時俺はそう言ったね、”それでもお前は生きているじゃないか、生きている以上に楽しいことがあるか”今、判ったろ、無心の時には、事があっても、事が無くても全て人間の心の本然は歓んでいる楽しんでいるんだからそこに苦しみも何も無かろう、どうだい」「成る程なあ、雲を見てフーとなっている時何にも無かったなあ、私には、考えている事が」「そうだろう、全然考え無かったろう」「ええ」「雲の中にお前の心が溶け込んでその雲の中に漂っている間、お前さんは肉体にある病があっても無いのと同じ様な人生に生きているじゃないか、そう思わないかい」「そうです」「そうですと判ったら、今後出来るだけそんな気持ちになる時を多く味わいなさい」これが安定打座の時の気持ちだっていうことは、もう既にあなた方判ったねえ。

15;魂の安息の場所
「心っていうものはねえ、苦しまない時は歓んでいるんだ。それを多くの人は苦しまない時は歓んでいる心は見ないで、人間一度に2つは浮かばないんだ、苦しがっている時は楽しがっているやつが引っ込んでしまうんだ。楽しがっている時は苦しがっている事が引っ込んでしまうんだ。どっちか一本足出していないと立っていられないだろう。両足出さないで立ってられるかって言ったろう。立ってられるか。立って見ろ。尻餅付くから。だから、病や運命から心が離れた時、又、人生の出来事から心がそれを相手にしない状態になった時その人は自分で幸福だなあと感じなくても幸福になっている人なんだ。何にも心に負担が無い時なんだ。だから、病が無くても、運命が良くっても心が無い病をあるように考えたり運命の中に良くないことがあるだろうと考えた時にこれは病になったり悪い運命を味わっていると同じ気持ちになる。これらが悟りぜ」こう言われたんだ、山の中で。「とにかく、他人の事じゃない、お前さんのことだ。肉体の病は肉体だけのものにして心にまで迷惑を掛けない心掛けを持て、心に迷惑を掛けたくなければ時にふれ、折にふれ、心に天の声を聞かすことだな。つまり声の無い声のある所こそ心の本当の安らぎの場所だ。魂の安息の場所だ。そこに心を入れてやると一切の迷惑が心に掛からない、すると心は直ぐ本然の力を命の中に注ぎ出してくれるんだぞ。判ったらそれ以上のことは心を天の声に同化させている内に自然と自分で判ってくる。」こう言われ、本当に生まれ変わった様な気持ちになっちゃったんだ。」

16:心機転換のコツ
要するにこれが本当の心機転換の唯一の方法なんだ。心機の転換が出来ればね、人生はもう今までと全然違った状態で何時も歓びを心に味わわせようと思ったら全てのことを歓びに取り替えてからに心に味わわせることが出来るようになるんだよ。心機の転換が出来ないと自分のただ常識や感覚だけで歓ぶもんだけっきゃ歓ばないんだ。だから多くの人々の転機は極めて狭い転機で生きているって言ってもいいわけなんだなあ。
17;天風先生の人生観
そこで私の人生観は「人生生活の手段は人生の事情がどうあろうと出来得る限りの努力を行うて歓びを心に味わわせる、それが一番の生き甲斐のある時を作る秘訣だ」と思ったんだ。こう言うと中には、なんだいそれじゃやっぱりあれじゃねえか。今までの世にありふれたヘドニスムスと同じじゃないか。ヘドニスムスと同じじゃありませんよ。デカタン主義の快楽本位じゃ無いんです。ちょいとだけ聞くとなんか享楽主義の人生に生きる様に思えるかも知れないけれどヘドニスムスのような他人はどうでもいい、自分並びに自分の家族、自分の関係のある人だけが歓びの生活を営めば良いというような享楽主義のものじゃないんだから。そんなんじゃないんだ私の言うのは。私の言う人生観の中には厳格にそこに一つの規格があるんです。その規格とは曰く「全ての如何なる種類の歓びでも絶対に他人の幸福を妨げるものであってはいけない」というのが規格であります。人の幸福を妨げて自分だけが歓ぼうとする歓びはこれは悪であります。真の享楽ではありません。他人の幸福や歓びを妨げないものならそれは人間が自分の生物的本能を生かして自分の命を歓ばせるんだからむしろそれは尊いもんだと私は思う。私はそう思っている。とにかくこの人生観を堅持して実行する私は人間がその時代の便宜に順応するために作った古くさい道徳論や倫理観というものは全然私には要りようの無いもんであります。絶対に排絶します、そんなもんは。何と理屈をしかつめらしく言うてみても、又どんなに勿体ぶって道徳論を振り回してみても人間というものの本質を公平に観察すると人間がその生命に感覚的なあるいは官能的な享楽を歓ぶということは我ら人間の生命の本能であると同時にそれが生活に生きる価値を与えることになるからであります。

18;天風先生の願い;感涙にむせびながら
だから私は敢えて断言する。この世の人々の全てが今まであった様なとらわれたしかつめらしい道徳論や倫理観から離れて人間の生物的本能である感覚的と官能的な享楽を他人の幸福を妨げない考え方という広い範囲にわたって歓び楽しめる様な心掛けを持つ人が増えたならばそこに期せずして人々の生き甲斐のある楽しいのどかな理想的な本当の人間の世界が出来ると思う。
今言った様な正しい心掛けの人々のみでこの世の中が出来たらどうなる。何も難しい道徳論や倫理学をしかつめらしく説かずとも、又研究しなくとも万人の全てが同じ心持ちで一致して信頼し合ってお互いの人世のために楽しく協動することになるから言わずして平和な・・(テープ切れ)

11.信念と奇跡信念を判っているか、判っていないか、信念が何故人生に必要かという問いに答えられるか、
信念の誦句を口にしているだけでは信念を判っているとはいえない、
今日は精神の重要性を話す、今までとは断然違ったものになるだろう、
信念が確固不抜になると各人の持っている念願や宿願達成される原動力となる事が判る。
信念とは一体何か、それを解らないといけない。
理屈で判らせようとしても判らないものだから、自分の気持ちで捉える以外に方法がない、
「お前!信念強くなれ」と自己暗示をする事で信念そのものを体験する以外に信念を理解することは出来ない。
諸君は信念に宿願達成の絶対的な原動力があることを確信していない。
私は駄目だと自分自身を軽く見てしまう人が居る、極めて末梢的な見解で諦めてしまう人が多い、
信念の渙発をとても難しく考えてしまっている。
諸君は易しいことでも自分が出来ないと難しいと考える、
“信念を持て”、“信念を持て”といくら言われてもどうしたら持てるか判らない。
想像力を応用して心に絶えず描くことで信念が確固不抜なものになる。これを聞いても判らない人が多い、
理屈から考える人はそんなことで易々と自分の思いが叶えられてたまるかいと思っている人がいないかい。
そんな人はいくら私が説明しても半信半疑で聞いているから同じようにやることはやっても手っ取り早く効果を手にすることは出来ない。
理屈は解らなくとも、よし、とにかくやって見ると、やるに応じて自分に起こる変化に気付くだろう。
日常生活で何かあっても昔のように簡単に慌てふためく気持ちが少なくなる。
人間に出来ることなら何でも自分にも出来るという風に信じられるようになってきた、勿論何年もかかってだけれども、
人間というものは一寸した心の持ち方でぐんぐん信念が強くなり、力強く生きれるのだ。
生命力の持つ不思議さをしみじみと味わえるようになる。
そういう資格があるのにその様に生きていない人達を見るとき何とか解ってもらおうと思って話をしている。
判ろうと思って聞いてはいけない。聴いたままそのままを自分の魂に入れるようにすればよい。それでは本題に入る。
我々が考えたり思ったりすることのは一体何のためにするのか考えてみたことがあるかい。
諸君は、思ったり考えたりするのが当たり前だ、位しか考えていない。
心の行う思考というものがいかに人生に大きな働きを持つものかを知らない。無限大に近い力がある。
目に触れる全てのものは自然にあるもの以外は全て人間の心が作ったものであることは判るだろう。
あなたの心の中の考え方や思い方が現在あるがままのあなた方を作ってしまった。
自然物以外は人間の考えたこと、思ったことが作ったものなのだ。
一挙一動どんな些細な行動もみんな自分の心の思い方、考え方の表現であると気づいた時、
絶え間なく考えていると期せずして、それらがTendencyとしてどんどんそちらへ固まっていくという事実に気づくべきだ。
だからいつも心に描いているとそれだけ強く信念化することに私は気付いた。
世間一般の人は心があらゆる力の根元だということを知らない。
従って、疑うということがどんなにマイナスかということに気がつかない。
先ず、疑ってかかるということが正しい思考の方法と考えている人が多いがそれは間違いだ。
窮すれば通じるという言葉がある。切羽詰まったとき心が雑念から離れるから通じる。
潜在意識を活用する効果のある方法は望み求めているそのものを実際の姿としてありありと心の中にはっきりと描くこと。
その描いたものを継続しなけりゃ駄目だよ。たとえ今病気でも、健康でピチピチしている姿を思い描けばいいんだ。
とにかくやってごらんよ。強固な信念が形作られてくる。そうするとやがてそれらが現実化してくるから。
思考の直接の源は意識であり、その意識の中で実在意識は思考の源であり、潜在意識は力の源である。
心に施す技術を高めることである。簡単だ、価値の高いことを心に描くことである。
価値の高いこととは楽しいことである。唯、無謀で不合理なことは駄目だよ。
それともう一つ、実現する可能性を連続的に自己暗示することである。自己暗示を積極的な方向に応用すると驚くべき変化が表れる。
現在不健康で不運命な人は知らずに消極的な自己暗示をしていたんだ。だから、今までとは逆なことをすればいいんだ。
たった今から心だけでもすぐに変えなさい。
――――――――――――信念と奇跡の誦句―――――――――――



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12.心と命今日は人間の一番大事な命の大本を司っている心について理解をする。
心はその語源は「ころころ」にあり、猫の目のようにコロコロ変わるのが心なのだ。
自分の人生を価値高いものにして生きる上で大切な心というものを現代の人は判っていない。
だから、自己統御が出来なくて、病気などになる。
心は働きの方から見ると2つに分かれる。肉体の方に付いている心と心それ自体に付いている心である。
肉体に関わる心には 中核心,植物心,動物心がある。
心に関わる心には  理性心,霊性心がある。
中核心;物質形成の心で全ての細胞に存在する心で物質心ともいう。
そんなものがあるのかいなと思うかも知れないが、知る、知らぬを問わず誰にでもある。
どんな物質にも芯がある。それが物質形成の心というものである。感じないから気付かないだけだ。
植物心;動物だけでなく植え木のような植物にも存在している心である。
栄養を吸収し、老廃物を排泄する働きの心である。この心がなければどんなに栄養を摂っても吸収できない。
「腹が減ったなあ」という状態を後で言う動物心に報告するのがこの心である。
それに気付いて食物を探すのは動物心である。
動物心によって取り入れられた食物を吸収できるように唾液を出し、スムースに食道に導くのも植物心の働きである。
気道に入ったらえらいことになる。そこから先は動物心は干渉できない。全て植物心の働きで消化吸収する。
こんなありがたい心が自分の中にあるのを知らなかっただろう。
毒を食べた場合、諸君が気付かないだけで植物心がちゃんと吐き出させてくれる。嘘だと思ったら蠅を食べて見ろ。
蠅を食べられるのはカエルだけだ。ちょっと腹の具合が悪いとすぐ医者に行くが、吐くもんを吐けば治るんだ。
植物心に任せればいいんだ。これらのありがたい働きは植物心がやってくれる。
自律神経のもとで、自動的に行われるこれらの働き。
この働きの重要さに気づいていないで、意志の力で作用する動物心のみを心と思っているから間違えるのだ。
この植物心を粗末にしてはいけない。動物心が乱れると、脳幹を通じて植物心に影響を与える。
従って動物心の取り扱いが大切になる。心の態度を積極的にしないと植物心が十分に働かなくなるんだ。
心の積極化が命にとって大切なのはこの理由による。植物心が体を維持してくれている。
植物心こそが人間にとって大事なのだと気づいたらしめたものだ。後は、植物心の働きを妨げない生き方をすることである。
即ち、動物心の取り扱いが大切なのだ。
肉体の命を生かしていくために与えられている原始欲望(食欲、睡眠欲、性欲)は動物心であり、
人間だけでなく、犬や猫にもある。
この動物心と関連する感情が植物心に大きく影響する為に動物心の取り扱いが大切である。
人間はこの為に神仏を作った。実際には神仏はいない。宇宙に存在する真理を神といい、又、仏という。
動物心を犬や猫並に放置せずにきちんとコントロールするために神や、仏や哲学を生んだ。
動物心を、生命を維持するのに意味のある範囲でのみ作用させるように統御を完全にすることが大切である。
動物心の中で植物心の働きを悪くするのが、いわゆる怒ること、怖れること、悲しむこと、恨み、煩悶、取り越し苦労、等々の いわゆる一切のマイナス思考である。
迷盲心があるから迷う。姓名判断をしてみたり、宗教にすがったりするのもこの心のなせる業である。
字画がどうのこうのと言うが地球上にすんでいるのは日本人だけじゃない。
なるほど日本人の名前は字画が数えられるが、アラビア人の字画はどうカウントするんだい。おかしい話はない。
人間が人間である限り自分の運命を他人に聴かなけりゃならないなんていう情けない話はない。
500年もすれば、宗教はなくなると思う。宗教で救われようと思ってはいけない。
自分は立派な人生に生きようと思うならば、そんな態度ではいけない。
宇宙を創造した大いなる力が、神であり、本来の宗教である。それに頼って御利益を得ようなどというのは大きな間違いである。
このような迷う心、嫉妬、男にだって嫉妬はあるんだよ,男の嫉妬は女の嫉妬よりひどいんだぜ、知っと(嫉妬)るかい!。
心配、憎悪、復讐心、等もよくない。忠臣蔵を美談といってはやし立てるがあんな馬鹿げた話はない。
浅野の殿様が我慢すれば済んだことではないか。それを我慢できなかったのが第一間違っている。
そんな、堪え性のないことを美談にしてはいけない。
又、大石が仇討ちをしたというが、彼一人が行ったのならともかく、大勢で徒党を組んでまるで暴力団ではないか。
第一、47人もの人間がその後の尊い人生を大切に生きずに、つまらぬ事に命を落とすような生き方が 本当に正しいといえるとは思えない。
だから、復讐心もつまらない。排他心,歯が痛いんじゃないよ、
誹謗、猜疑心、貪欲、失望、落胆、不平、不満、自暴自棄、等々 これら28のよくない心が人間にはある。こんな心が、油断すると、直ぐに心を支配する。
理性心の特色は「推理と考察を司っていて、判断はするが、統御する力は無い」。
霊性心は人間としての尊い心なのだが、発揮していない人が多い。インスピレーション、霊能力もここから発現する。
人間には誰にでも、霊性心のあることを知っている人は少ない。しかし、通常は特別の努力をしないと発揮しない。
ただ、ボーっと生きていたのでは、動物心だけで生きることになる。
大きな力のごく一部を自分の心と思って、それが全てと思って生きている。
ほとんど動物心で生きておりたまに理性心で生きている。
霊性心は出そうとしても出ない。出るようにしないと出ない。出たくても出られないのだ。
仏教では心が明鏡止水でないと出ないという。つまり、心の働きを休めなければ出ない。
それでなければ、先に挙げた28の本能心だけが自分の心と思って生きる羽目になる。
その方法を他の人は知らない。霊性心の発現に必要な方法として、無念無想になる安定打座、等の方法を 教えているのだから、実行しなければいけない。
霊性心で生きる人間になることが天風会の目的である。
折角教わっているのだから、これらの教えを価値高く捉えなければいけないんだよ。
常に霊性心が自分の心から離れないようにする事を確実にするために、私なりに、自己に課していることがある。
そのことの実行を、今日は休もうなどと思うことは、私は一度もない。
何故なら、それを体得するまでの苦労を考えると、とてもそんなもったいない気持ちになれない。
こんな素晴らしいことはないと、実感しているからだ。
先日もある会員が来ていたが、その前で、立ち上がり深呼吸を2回ほどした。それは、私には意味のあることだった。
しかし、その会員は、何か見本を見せて貰った位に思って恐縮していただけだった。
終わってから「ありがとうございました」と言っていたが、そんな礼を言われる必要はなく、 私が必要だと思ったからやった迄で、その人も、只見てないで一緒にやればよかったのだ。
生き甲斐のある人生を生きるのではない。生き甲斐のあるのが人生なのだから、その通りに生きたらいいのだ。
今、自分の考えている心は動物心なのか、理性心なのかとチェックする事である。
霊性心であれば、その瞬間にスッと解決してしまっている。
心の無駄遣いをしてはいけない。長生きするには、いい加減に生きていて出来ることではない。
心は価値高く生きるために与えられている道具である。
ところが道具である心に使われている人が多い。
心は道具なのだから、大切にして、手入れをして、丁寧に取り扱い、生きる様にしなくてはならない。
そうすれば、どんな場合でも、明るく、朗らかに、楽しく生きれるはずである。
使うべき心に使われることの無いようにすること。心はその人の命と人生を完全に生きるために与えられた道具である。
大切な道具であるから、粗末に扱ってはいけない。心も体も道具である。体も粗末に扱ってはいけない。
それでは、本当の自分は何かというと「氣体」である。霊魂である。
貴方の持っているハンドバッグは貴方のものだが、貴方自身ではない。体も心もそうである。
自分の家庭の支配権を昨日、一昨日来たお手伝いさんに委ねて、そのお手伝いさんに使われる主人がいるかい。
自己生命の支配権は霊魂にある。決して心や体にその支配権を委ねてはいけない。
ほとんどの学問は心が人間の本質と信じられ、研究されている。これは大きな間違いだ。
1965年に中村天風という男が、こう言ったということが後世で語られる時が来るはずである。
心を中心にすると理性と感情の衝突が起こる。本能心で生きると、狭い視野で生きることになる。
それは人間以外の動物の生き方である。人間の生き方ではない。本能心を全て満足させることは難しい。
その結果満足感や感謝の気持ちが少しも湧いてこない。こんなレベルで生きるのが人生の目的ではない。
人間はもっともっと尊い生き方をするものだ。
インドで「人間は何をしに生まれてきたのか、使命は何か」と聞かれた。こんな事を考えたこともなかったので、びっくりした。
「こんな事が判らないのか」と言われてくやしかったので一生懸命考えた。
半年考えて、「進化向上のため」ということが理解できた。
最初の内は生まれてきたのは苦しむためだと思った。
それまでに世の中の生存競争の激しさをつぶさに見て暮らしてきたので、本当にそう思った。
苦しみながら一生を送り、死んで安楽を得るという一般的な宗教観を持った。
しかし、インドの山中で考えながら、周囲の大自然を見ている内に、その背後に創造主の存在を自覚せざるを得なかった。
常に、今、今のこの瞬間に、次から次へとそこ此処に創造という行為が際限なく展開されている。
地球の今までの歴史を見てもそうだ。生物の進化の過程を見てもそうだ。将に、停止することなく進化向上を実現している。
そして、その最高の造化の結晶が人間ではないか。
しからば、この人間の生きている目的も、間違いなく、進化向上に他ならないときが付いた。



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13.安定打坐法座禅の三昧境地はブザーが途絶えた瞬間にその入り口に立つことになる。
こんな簡単な方法はない。
昔から三昧の境地に入ることは難しいというが、それはやり方が悪いので、入ること自体が難しいというのはおかしい。
人間自身のことが、何故そんなに難しいのかと考えるのが自然だ。難行苦行を必要とすることが不自然である。
三昧の境、身も心も落ちつける方法は人間にとってごく自然なことでそれを手に入れるには次のように考えろ。
三昧は英語で「正しい感受性」という意味、PERFECT IMPRESSION である。
「霊性意識の極地」という言い方もされている。正念接心、大我没入、無念無想ともいう。
天風哲学では「有意実我境」という。精神統一の極地をいう。
心が雑念妄念を排した、磨き上げられた鏡のような状態のこと。このような状態になってはじめて三昧の境地になる。
ブザーの音に心が引きづり込まれパッと切れた時、その瞬間は心が無念無想になる。
それをいつでも出来るようになるための訓練をしているのだ。
それには心が無念、無想になった瞬間をしみじみと味わわないといけない。
この静かな気持ちをどんな場合にも、何が起ころうと崩さないようにすること、
それが出来る人間になること、本当に出来た人間はこんな人間なんだよ。
こんな風に生きるとどれだけ自分の力が表面に十分に発揮されて生きることが出来ることか。
事ある時も、無き時も、今、ブザーの途絶えた瞬間のような 静かな波風の立たない心の落ちついた状態で生きる必要がある。
自分で予想もしない有限微妙な力が心の底から湧いてくるのだ。
それには前提として必須のことが、安定打座の心の落ち着きを一瞬も忘れてはいけないという事だ。
打座の「打」は落ちつくという意味である。
他人に右を向けと言われたら怒るくせに、心を乱されても怒るどころか、 乱されていることさえ気付いていないのが君たちだ。
しょっちゅう、周囲の事情に翻弄されて心に波風を立てているのが諸君の姿だ。
そんな生き方はやめて、常に心の中には波風を立てない生き方をしなければいけない。
安定打座の目的はここにあるのだ。人間として常に落ちついた心で生きる。
そうしてこそ、その生命を十二分に全う出来る、健康も、運命も。 
人間だから喜怒哀楽の感情はある。
だがやたらと感情出すのでなく、正当な感情を正当に発露して人生を生きてこそ本当の人間なのだ。
本来宇宙には音はない。無声の世界だ。その状態にはいるのだ。
どんな大事件が発生しても心の中に波風の立たない状態にならなければならない。
―――――――ブザーの音――――――――
B面は安定打座の実習



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14.神経反射の調節法天風師がその御本でご説明されておられる
神経反射の調節法についてその効果についてご説明されておられます

ただ。残念ながらテープは途中で切れておりまして肝心の方法の部分は録音がありません。
その部分は御本を読まれて補足してお聞きいただくことになります。

以下はお話から一部抜粋したお言葉です。

以前は、自分の肉体に生ずる変化に対して惨めなほど意気地のない自分になっていた。
その後、厚紙をはがすように、私の健康が回復した。
特別な体を作って山の中に入れば猛獣も毒蛇にも喰われない。猛獣や毒蛇はオーラの出ている人間が判る。
そういうふうになるんですよ、人間は。
自分自身が自分自身に負けない心を作るために教える。
理由がどうであろうと心の態度が消極的になれば、(理由には同情しないよ、)それなりの結果が来るんだ。
仇やおろそかに考えられない重大なことなのだが、一寸頭痛がすると何のために天風会に来たのか判らない連中が居る。
心配したり驚いたりすると血液やリンパが健康を害するものになると言っていたのは昭和10年ぐらいまでだ。
それから、人間の心が消極的になると循環器傷害が起きる、つまり血管が硬化し血圧が高くなり血管の破裂を招く。
人間が消極的な感情生活をしていると血液が役に立たない血液になるということをつい2.3年前まで話していたね。
常に自分の蓄電池に豊富な電磁力を満たしておけばいいんだよ。



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15.幸福への自覚―――最初に誦句を朗読された。―――
修行は修行、実生活は実生活とを分けてはいけない。実生活の中で、教えを活かさなければならない。毎日の行動の中で、教えを噛みしめ、身につけ、自分のものにしなければならない。さて、本日の主題である幸福に活きるために必要なことは何か。それは、日々生きる中で、営々とその心を研ぎ上げる以外に幸福になる方法はない。難行、苦行なんか必要ない、方向違いである。健康が芳しくない、運命が良くないというのも、要は心の研ぎ上げ方が悪いからだ。
何故、心を研ぎ上げることが必要なのか、それは心を研ぎ上げれば、人間全体が作り替えられるから、結果として幸福になれるのだ。人生の一大事業とは心を研ぎ上げることだと言い切って良い。その証拠に、心を研ぎ上げれば、幸福になれるのは、過去の偉人、哲人といわれる人を見れば分かる。彼らは、彼らなりの努力によって、心を研ぎ上げ、人間として一般人の到達し得ないレベルに達し得たために、苦しみはなく、常に春風駘蕩として、安心立命の中で生きている。常に霊性満足の中に生きている。こういう峻厳な事実から考えて人間として生まれた以上、このように生きるのが目標で、あり、そのための自己錬磨こそが最大の事業である。ところが、一般の人はそんなことを目標だなんてこれっぽっちも考えていません。大部分の人は金や、地位や、名誉で幸福になれると思っている。そちらの方に一生懸命になって、肝心の人間として励むべき事業には少しも取りかかろうとしない。病気なんぞにいたっては、かかったら仕方ないと思っている。そんなものではない。正しい努力をすれば、病気なんぞも簡単になるものではない。自分で自分をごまかす理屈を付けても仕方がない。生き甲斐のある人生を生きるべきである。生き甲斐なく長生きしても、死んを研ぎ上げ、だのと同じだ。短くても、その間、生き甲斐ある人生を生きればその人の人生はその間長く生きた人生であったといえる。正しい順序と方法を自分の人生に施して、心生き甲斐のある人生を生きるべきである。
それでは、次にどうする方法が心を研ぎ上げる本当の方法か。こんな方法を教えて呉れる所は、ここ以外にはないぞ。というのは、この方法は私が長年苦心して考えついた方法だからである。然し、自信を持ってその効果を断言できる。何がユニークかというと、原因から結果を導き出すというのでなく先に結果を作りそこから原因を導き出すという方法だ。正確には、観念を確立して後、実績を残すのでなく、先に実績を作りそれによって観念を形作るという方法である。あなた方は対岸に目的を置いてそれに到達することが修行だと思っている。それは違うのだ。具体的に言おう。諸君が教わっている精神生命保持の法則と使用の原則の実行である。つまり、精神を積極的に把持し、精神を統一して使用するというこの2点をあくまでを実行するのである。そのことが、心を研ぐことになるのである。何らかの別の手段で心を研いだら、このようなことが出来るというのではない、以上の2つの方法を毎日の行動の中でことごとく実行していくことが、とりもなおさず「心を研ぐ」ことになるのである。要するに、この2つの事柄を常に心において実践していくことが肝要である。従って、観念要素の更改なんぞも真剣にしなければいけない。フワッと、浮ついた気分でしないことである。観念要素の更改についてひとつ秘訣を教える。それは、昼と夜と心の使い分けということである。夜というのは寝る時だけじゃないよ、日が沈んだら夜なんだよ。そこで、昼、どんなに心を乱すようなことがあっても、一旦夜になったら、断じて心をそのような世界に放置しない心がけが必要である。つまり、夜は完全に昼とは違う、平安の世界に、努めに努めて自分の心を入れること。何故なら、ヨガの哲学の方では夜は人の魂が神の懐へ帰ろうとする時であると説いている。積極的な心になろうと思えばなれるのだ。
どんな時でも人間は強く生きれるものだという自覚が持てれば天風会員としては一人前だ。あなた方はどうだ。なれるんだ、誰だって、こんな人間に。人間は幸福で、健康に生きられるように出来ているんだ、ということをあなた達に教える最初に言ったはずだし、そのことを忘れてはいけない。もし、あなたが今そのような状態でないとしても、それは、過去に自分のまいた原因によるもので、今すぐにでもいくらでもより良くなる道筋は、こんな身近な所にある、と気づかなければならない。つまり、今すぐ、先ほどの2点をあくまで実践躬行することである。ひたすらに。
―――以下は、時として感涙にむせびながら話されておられる。―――
心を研ぎ上げることは、当然の帰結として、本心良心の渙発に結びつく。そして、本心良心とは、自他のない心である。どうか、愛と誠と調和を心に持って、全てが、全ての人が、自分だけでなく、みんなが、幸福になるんだ、そんな世界を実現するんだという、尊い理想を持って生きて欲しい。全人類は幸福になるはずである。それを、俺は念じるという、高い、尊い、理想に諸君は生きて欲しい。
---------------このテープの余白部分の録音から------------
昼間、明るく朗らかに勇ましく生き生きと生きる態度を緩めたらいけない。 それから言葉に注意しなさい。絶対といっていいほど消極的な言葉を使ってはいけない。




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16.信念と奇跡 (このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
今日のお話に入る前に、少し話しておく事がある。現在、世界的に禅への関心が高まりつつあるが、しかし、 その禅は悟りを開く動機だけを与えようとしている。悟りを開いただけで人生が完全なものになると思ったら大違いだ。
禅はただ「悟れ、悟れ」とだけ言っている。悟っただけじゃ人格は完成されない。
禅の方ではその先を一体どう考えているのだろう。
理論的にいくら人生が解っても、日常の人生に役立たなければ三文の値打ちもない。
自分の持っている自分の本性を悟るのが禅であるが、それは時間さえかければ、 それぞれの自分自身のことなのだからいつかは解るだろう。
しかし、いくら悟っても、それを日常生活に応用する方法を知らなければ何にもならない。
ある有名な禅僧が平素は素晴らしい悟りのお話をし、落ち着いた生活をされていたが、 ある時に病に冒された途端に少しも安心一番の気持ちが出来ていない姿を見た。
それは、折角悟りを開いておきながらそれを邪魔する雑念妄念を取り除く方法を教えられていないからだ。
考えてみれば、そこへいくと諸君は幸せ者だ。
公案など考えなくとも次々と私が与えているのだから、彼らのような苦労はしなくて済む。
しかし、注意しないといけないのは自分で掴んだものでないだけに、うっかりすると気づかずに放してしまうことになる。
とにかく、悟ることが目的ではなくてそれを人生に役立てる段取りをこそ、掴まなくてはいけない。
このことをしっかり頭に入れて本題に入る。
信念という言葉は誰でも知っている。また、人生に必要なものであることも知っている。
だから、改めてその重要性を説く必要はない。にもかかわらず、ひとたび病などにかかると、 この重要と思われていた信念をどこかに忘れて、まるでそんなものを忘れたかのように振る舞う、話にならない人がいる。
先日もある会員が、病気になっていたことを知りその会員を訪れて何故知らせなかったのかと尋ねた。
するとその会員は、先生に言ったら自分の修行の未熟さを怒られると思ったから、と言うのだ。
馬鹿なことを言うな。病にかかるのが人間だ。病にかかったからといって怒るようなことを俺はしない。
勿論ほめはしないがね。病にかかった時の心の持ち方が大切なのだ。その内容によっては俺は怒る。
何事も無い時はともかく、一旦事ある時にいっぺんにわかる。
いいかい、生きている以上病気であろうが、健康であろうが生きているのに変わりはないのに、これがわかっていない。
死んでなけりゃ生きているのだ。それなのに、病の時と健康の時と全く別物になるのはおかしいと思わなければならない。
更に、信念の重要さはこれだけではない。つまり、宿願達成の原動力となる信念の重要さに気づかなければならない。
単にああなりたい、こうなりたいの炎が燃えているだけなのがあなた方の姿だ。
信念が確立されると、正しい宿願であれば必ず達成されるのだ。しかし、信念の重要さを認めている人でも、 信念が自分の心で考えていること、つまり正しい宿願を実現するものだということを是認している人は少ない。
「私はこうします」と明確に大きな声で、自信たっぷりに話す人がいるが、それはそう言っている、 そう思っている、そう願っているだけである。それこそが信念だと思っている人がいるがそんなのは信念ではない。
それでは本当の信念とはどんなものか。
私は昭和7年、突然声が出なくなった。咳さえ音が出ないのだ。知り合いの著名な医師がガンだと診断した。
即刻入院、即刻手術が必要でしかも生命の保証は出来ないと言われた。更に、万一助かっても声は出ないと言うのだ。
気安い仲の医者であったので「さんざん今まで話をして来たのだからもう話せなくても思い残すことはないだろう」などとも言われた。
もし、私にその時に信念がなかったらそのままその医者の言う通りに手術をしただろう。
しかし、私は「死ぬ時は死ぬよ」と思っている。死ぬまでは、今を生きるということだけしか考えていない。
そうでも思ってこなければ実際これまで長生きなんか出来ないよ。それをいうと医者は 「そんな無茶が通るなら医学など必要ない」という。
しかし、信念の大切さを、その価値を、その実際状態をよく知らずにいたらここまで生きて来られなかっただろう。
仮に、生きて来られたとしても、怖ろしい事を考え煩悶し、苦しみの中でやっと生きてきただろう。
しかし、ありがたいことにインドで悟りを得ることが出来た。信念の実際状態が判るようになった。
インドの修行は厳しかった。人間扱いされないのだから。犬以下の扱いをされるのだから。
日本の禅の修行どころの厳しさではない。そのような厳しい修行を通して、インド哲学の根本を知ることが出来るのだ。
信念というのは積極的に、ガムしゃらに、強烈に考えりゃいいのだと以前は思っていた。
「信念とは疑わざる心」とだけ教えられていたのだから当然だ。そうさえ思ってりや幸福で健康になると本気で考えていた。
しかし、信念の真実を少しづつ理解するに従い、大きな間違いに気づいた。がむしゃらに考えるのは単なる強情っぱりである。
こんなのは相対的心的状態である。もっと絶対的なものだ。一言でいえば、信念とは否定や肯定を超越したもの。
俺は信念があるなんていうのは肯定だ。肯定や否定は相対的なものだ。
それを超越した心境が絶対的境地でそれが即ち信念である。
例え話をする。昔、造船学の権威という工学博士が俺を訪ねてきた。「先生は、疑っているようでは決して真理は掴めない、
といわれましたが本当ですか」と質問するので、「その通りだ」と答えた。
すると、その博士は「私の仕事は疑う心がなければとても勤まりません、常にこれでよいのか、 もっと良い方法が無いのかと考えるから、新しい工法の発見につながるのです」というのだ。
わたしは「おまえは馬鹿だ」とはっきりと言った。疑いと研究心とは違うものだということを理解していない。
幼い子供が親に「どうして、どうして」とうるさいぐらいに世の中のことに疑問を持って尋ねるのは、疑っているのではない。
立派に研究しているのだ。疑いとはゴミや垢が心に入っている状態をいう。研究心とは違う。
この違いも判らない奴がいる。この例え話で私が何をいいたいのか判るかい。
それではもう一つ、別の例え話をしよう。有名な宮本武蔵の話だ。晩年、細川公の客分になっていた時、 ある日細川公が武蔵に問うた。「生涯に100以上の真剣勝負をしてきたそうだが、その中で、こいつは強い奴だ、 と思った相手は誰か」。武蔵は答えた「私の戦う相手はみんな強い相手だ、一人として弱い相手など居なかった」。
そこで細川公は次のように質問した。「この勝負には勝てるだろうとかひょっとすると負けるかも知れないな、
と感じたことはあったか」。武蔵は答えた。「そんなことを感じたり、思ったことは一度もない」。
細川公に武蔵は言葉を続けた。
「あなたは毎日の食事に際して、その食事の都度に毒が入っているとかいないとかを考えたことはありますまい」。
この言葉を聞いた途端に細川公は判られたがあなた方は判ったかい。
「思わじと思う心は思いなり、思わざりせば、思わざりけり」、
仏教でいう「不思量底いかんが思量せん。非思量、これ即ち坐禅の要術(ようじゅつ)なり」である。
これが安定打座の精神だ。これが信念の実体だ。否定も肯定もないのだ。
私もこれが判るまでは、次から次へと自分の心を引っ張って行こうと努力をしていた。
それでは駄目で、肯定も否定もない、それでなければいけない。出来るとも出来ないとも思わない。
そうなった途端に何でも出来るようになったのだ。これが信念だ。そんなことを思っている人間は出来ないのが当然だ。
知人に絵描きがいたので、せめて、富士山をかけるようになる勉強法を訊ねたら、 そんな年齢になっていては無理だと言われた。
しかし、信念を知っていたから、俺は描けると思っていたら諸君もご存じのように本当に描けるようになった。
描けるようになるだろうかとか、描けないだろうかなんか考えない。
実際、昔の友人に会うと困るのだ。友人もあまりの変わり様に驚くが、昔の俺が本当か、
今の俺が本当か判らなくなる。それほど心の変化がしかも突然にこの身に起こったのだ。


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17.力の誦句(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
昭和43年夏期修練会、真理瞑想行講演 天風先生93歳、京都黒谷さんにて
只今より真理瞑想を始めるに当たり、最初に古い会員に言いたいことがある。
今現在、自分は心身統一道の生活をしているか、この生き方でいいのか、自惚れや身びいきを排除して、真剣に検討して欲しい。
教義にもとった生活をしていないか。自分で気付かずに、自分勝手な解釈で自分は出来ていると思っていないか。
先日名古屋の会員で、「先生、私は毎日統一体操を一通りやっております」と胸を張って言う人が居たが、 ただ「おいちに、おいちに」とやるだけじゃ何にもならない。
それさえやっていれば立派に統一道を実行していると思い込んでいる人がいる。統一道は口先の原理ではない、
真理に即した人間として生き甲斐のある生き方をするという、極めて具体的でそれだけに真剣な、厳しい修行である。
この本来の目的を忘れている。
単なる、習慣で夏期修練会に参加していないか、ひどい奴になると天風先生によく思われたいから参加するという人もいる。
これでは何にもならない。一皮むいたら、中味は空っぽだ。
新しい生命を立て替える機会が修練会である。古い会員も、新人と同じ気持ちで真剣な気持ちで臨んで欲しい。
特にこの点、古い会員に苦言を呈して、それでは本題に入る。
ここからは新しい会員もしっかり聞くんだよ。
1.はじめに;真理瞑想の目的
この真理瞑想は、安定打座をし諸君に人生を正しく理解させるために必要な真理を伝えることに目的がある。
雑念妄念を取ると、真理に接することが自ずと出来る。これが事実である。
この事自体に気付くことすらなかなか出来るものではないのに、諸君はこれを既に教えられている。
又、仮にその道理がようやく判っても、どのようにしたら雑念妄念取り去ることが出来るのか、それを教えてくれる所はない。
その方法が安定打座法である。後はしっかりとこの方法をすべきである。
その上で判らないことは講師や、補導に質問してあくまでも理解を深めていくことである。
京都は一番質問が少ない。じゃ、判っているかと思うと判っていない。判らないから質問が少ないのかなあ。
2. 心の積極化が如何に大切か
それでは先ず、心を積極的にする事が如何に大切かということを説明する。
昨年暮れ、大病をした。老人の死因で大きなウエートを占める肝臓の病気だった。
昨日も朧谷先生(病院長)と話をしていて、先生が言われるには「今まで何人も患者を診て来たが、
90歳を過ぎてあのような病気にかかりながら、今日元気に回復された姿を拝見すると、心の積極化がなせる業の如何に偉大か。
心が積極的だとこんな事も実現できるのか」とビックリしていた。
君たちはどうか。
他人の話を聞いているときは判ったつもりで居ても、一旦自分が病になると、今まで聞いていた話など何処かへ置いて慌てふためいている。
新聞の死亡広告欄を見て思うのだがあの中で本当に死ななければならなくて死んだ人間は何人居るのだろう。
大体は気で死んでいる。これなどは、病でなく、自分で死ぬ原因を作っていることになる。
自分の身に起こることは全て自分の責任だと自覚しなければならない。
よく、不渡りを受け取ったがこれは自分の責任ではないという人がいるが、これとても受け取った人の責任である。
雑念妄念が無ければ、そんな手形を受け取るような判断はしない。
そのような手形を受け取る前にそのような取引を回避するとか、何らかの行動が自然に出来るものだ。
3.自己認証が心の積極化の基本
さて、心の積極化を図るために大切なことは「自己認証」である。
自己認証とは「自分で自分を思う思い方を、間違いのない思い方で思いなさい」という事である。
例えば自分の持っている値打ちを知らない人が多い。これが間違った思い方のスタートになる。
俺はこれが出来ないとか、こうしかならないとマイナスの方向から考える考え方が、
なんとなく人間として当然な正しい考え方と思っているが、これこそが間違った思い方だ。
ZD(ZERO DEFECT)運動という活動がアメリカから入ってきて日本の産業界で取り上げられているが、
私は何十年も前にこの考え方を言っている。
この活動は、人間には、失敗をZEROに出来る能力があるという前提でスタートしている。
つまり人間の能力はそれほど素晴らしいのだという考え方だ。諸君は人間に与えられている力に気付くことが大切だ。
この事を理解し、本当にそうだと理解し納得することが自己認証を正確にする第一歩である。
これが出来ればマイナスの考え方など発生するはずがない。
4.自己認証を理解するには
自分には素晴らしい能力があると言っても、諸君がそのように考えられないのは、肉体の方面からのみ人間を考えようとしているからだ。
それは間違った考え方だ。
その理由は後で説明するとして、何故肉体の方面から考えると自分の能力が偉大なものだと思えないかというと、 肉体には限度があるからだ。大鵬、柏戸といえども高々あの程度の力しかない。それでは知れたもんだと考えてしまう。
そんな肉体の限度が自分の限界だと勘違いする。
それではどうすべきか。人間を本質的に考えるとこうはならない。
扇風機を見て、回っている羽だけを見たのではその原理を本質的にとらえたとは言えない。
その回っているのは、電気というエネルギーが供給されて回っているということを理解することが本質的にとらえるという事だ。
5.どのようにして自己認証を実現していくのか、
人間の命は宇宙エネルギーによって生かされている。丁度、扇風機が電気のエネルギーによって回転しているように。
各人の生命は宇宙生命によって活かされている。この点をはっきりと自覚しなければならない。
そうすると、自分は力の弱い哀れな人間ではないのだと判るだろう。
何故なら、肉体は限界があるけれども、与えられる宇宙エネルギーには限界がないからである。
どのようにして、宇宙エネルギーを取り入れるか。
宇宙エネルギーを自己に取り入れるには人間の思い方、考え方によってその人の人生が作り上げられるという真理が 現存していることを理解しなければならない。
この真理を知らず、従って自己認証を出来ずに生きている人が余りにも多い。
所で、何故思い通りに人生が実現するかを考えてみよう。
先ず、宇宙に存在する全ての物質は宇宙エネルギーによって作られている。宇宙エネルギーの働きにはプラスとマイナスがある。
生成と還元である。これらが調和してこの世界が作られている。身近な例が、神経系にも交感神経と副交感神経がある。
興奮と抑制の反作用がある。
6.宇宙エネルギーをよい多く受け容れる方法
宇宙エネルギーをより多く受け容れようと思えば、その受け入れる容れものを大きくする必要がある。
それには積極的な心の状態が必須条件である。
心の持ち方で、その生命力に大きな差が出来るのは、このようにその器の大きさが違うからである。
然も、大きさが違うだけでなく、消極的な心の状態ではマイナスのエネルギーを受け容れてしまうことを知らなければならない。
7.自己認証についての結論
活きている以上は魂の力が自分を活かしているのだという事を自覚すること。これが自己認証である。
そしてその魂の力を強くするには、自分は「力の結晶」だという認識が必要である。
何事も無い時は平気な顔をしているが、何か一寸つまずくと「あっ、駄目だ」なんて簡単に思ってしまうのが諸君の生き方だ。
それを回避するには人の命に関する消息を知らなければいけない。
諸君は運命や健康に思わしくないことがあるときでも、何にも自分には責任がないと思っている。
それが大きな間違いである。
心の思い方、考え方と命が密接な関係にに有ることをよく考えないといけない。
心の思い方、考え方の一切合財が命の本質と繋がっているのだ。
扇風機の電気が発電所の発電機に通じているのと同じだ。
心の思い方、考え方が霊魂を通して宇宙の根本主体に通じているのだ。
宇宙の根本主体とは何か。目にも見えず理解することは難しいだろう。
しかし、非常な力と働きがある、そのような宇宙の根本主体が存在するのだ。
そして、諸君が思うこと、考えることは鏡に写るが如くに宇宙の根本主体に写っているのだ。
この根本主体のことを天風会では宇宙霊と呼んでいる。
この様に、宇宙霊と人間とは鎖で繋がるように繋がっている。
これは、自然的能動性といって心の作用と宇宙の創造の作用は密接な関係があるということである。
自己認証をしっかり持てばその信念の強さに応じて、この作用がより強く働くという厳粛な真理がある。
心の態度の通りに宇宙エネルギーが働きだして運命を良くも悪くもするのだ。
人生の一切は何であろうとも、肉体も心も環境も一切合財、心の思い方、考え方で創られているのだ。
判りやすく言えば、心の思い方、考え方が鋳型のような働きをする。
宇宙霊の持つ無限の原動力が鋳型通りの人生を作ることになる。
自己認証をしっかり持つことだ。
万物の霊長として宇宙エネルギーを無限と言っていいほど受け容れられる存在だという自己認証をしっかり持つ必要がある。
「私は力だ」という暗示をするだけでその通りになるのだ。
それには暗示の感受習性を利用した天風会の合理的な方法が有るのだ。
安定打座で心をきれいにした状態で暗示を与えると、宇宙エネルギーの中に飛び込んでいくのと同じだ。
雑念、妄念の心の状態ではこうはいかない。
暗示の誦句を良く理解して実践するように。
どんなに苦しい病にかかっていても、運命が非なる場合でも、暗示の誦句を心に唱えるならば少々のことではグラグラしない。
自己認証をしっかり持てば、自分がどんなに力強い存在であるかという事に気付き、敢えて努力せずとも生きる力がどんどん湧いてくる。
一寸気付くだけで、どんどん生きる力が湧いてくる。
私の場合昨年病気をしたが、自分は強い存在だと気づき、この病は回復すると信じることが出来た。
そのように医者に言ったが、医者の方が「そのお歳では、完全にご快復は無理でしょう」というのだ。
大体は、患者が落ち込んでそれを励ますのが医者じゃないのか。私の場合は反対だった。
こんな話を聞いて、ああそうだなあと思えること自体が不思議と思えないかい。
第一食べりゃ、何も気にせずにいてもちゃんとそれだけのものを排泄してくれる。目も見えるし、聞こえる。
こんな能力が与えられている自分って不思議だなあとは思はないかい。
見えるのは目があるからだなんて言う人がいるが、目があるからではない心があるから見えるのだ。
諸君にはこんな力が与えられているのだ。
今言ったような何時も諸君が何気なくしている、出来ているのはそれだけのことの出きる力が与えられているからだ。
それだけでなくもっと大きな力が与えられている事に気付かなければならない。
それが自己認証だ。
そこに気付いたら自分の命に宇宙のエネルギーを出来るだけ多く受け入れるように努力しなさい。
努力ったって大したことじゃない。
心の態度を変えるだけで良いのだ。
さあ、しっかり今日からやりなさい。
――――――「力の誦句」 唱和 ―――――――――


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18.自己本来内省の悟り昭和38年夏期修練会にて
人間が生きていく上で大切な宇宙真理がある。
その宇宙真理とは 「人間というものは、その心を通じいつでも、この宇宙を創り、今も創りつつある創造力のある造物主である宇宙霊と結合することが出来る」 という事である。
この宇宙霊というものから、お互いの心の状態を鋳型として、その形通りに宇宙エネルギーが流れ込む。
生きる刹那刹那、普段の心の態度を崩してはならぬ。
少しでも崩して消極的になると、宇宙霊の持つその創造の力はその心の通りに消極的な状態になる。
この大きな真理と事実は、実行の有無、理解の有無に関わらず、どんなことがあってもあなた方から離れることのない宇宙真理である。
心のあり方が人生を明るくも暗くもする光の源である。暗いところを光が照らせば暗さは無くなる。
人間の心の中に生じる消極的な考え方は人の世を闇にするマイナスなものだ。
そんなときに心の中に積極的な考えが作られると闇が消えて明るくなる。
ところが、いざという、事実に直面するとこの真理を忘れている人がいる。
それは、日々の瞬間瞬間の心に対する用意がおろそかになっている為の結果なのだ。
実際、我々の生きていり現実は瞬間瞬間、人生との摩擦を受ける時間に生きている。
こんな風にぼく念と座って話を聞いているときは良いが、一旦人生生活に戻るとどうか。
こんな静かな状態の人生ばかり生きれる人には関係ないのだが、普通の人間はそうはいかない。
一体全体そんな場合、どうしたらよいのか。
消極的な気持ちに気付いたら、いきなり悶えたり、悲しんだりしてはいけない。しかし、その処置の方法を知らないとそうなる。
天風会員だって、同様だ。そうなるのが人間だ。しかし、その時だ。暗い夜の闇が襲ってきたら、灯りをつければその闇は防げる。
そんな気持ちが出てきたときは、先ず悶えたり、悲しんだりしないことだ。心を暗くすることが出てきたら、それに関わらないことが一番良い。
頭痛だって歯痛だって気にするとしないでは違うだろう。関わりをつけるとつけないでは大きな違いである。
関わりをつけないだけでは、おぼつかないので、その反対の積極的になればよいのだ。
耳にいろいろな音が聞こえる中で、それらを気にせずに無念の境地を楽しむ安定打坐の時のようにすればよいのだ。
しかし、それには何か心に掴ませるものがないと、最初の内はそのような消極的な気持ちから離れることが出来ない。
何十年かすれば出来るようになるかも知れないがねえ。
そこで、消極的な心持ちが発生したら、一心に積極的な思考を心に持ち込むようにするのだ。努めてそのようにしないと駄目だ。
その積極的な気持ちが闇を照らす灯りになる。すると簡単に消極的な気持ちは消える。
簡単にというが、実際はこれが簡単ではない。理屈では簡単だが、実際は出来るものではない。
これがそれほどわけなく出来るものではないと知っている人はよく判っている人だ。
実際やってみた人ならその難しさが判る。それをわけ無く出来るようにする方法を教える。
こんなくだらない心になった時、尊い気持ちになったら良い事は判るが、さてそんなに簡単に出来るかいと思うだろうが、それには秘訣がある。
くだらない心を離れて、価値高い思考を心に持ち込む秘訣は、一言で言えば「現象の背後には必ず実在あり」という真理を真剣に考えればよい。
つまり、目に見える様々な事柄の中には目には見えないが、永久に無くならない宇宙霊があるという事である。
人間はこの宇宙霊を一番多量に頂戴して生きるように出来ている。従って、人間は本来的には完全に出来ている。
何故そう断言できるかと言えば、真我の実相を見れば判る。
つまり、人間は肉体でもなければ心でもない。人間の本質は気体である。霊魂である。
そしてこの霊魂は絶対に完全である。この絶対の霊魂は不完全なものを思わせるはずがない。
思わせるはずがないのに、心が消極的になるそんな時、霊魂が思わせているのでは無いと気が付かなければならない。
完全な心ならそんなことを思うはずがない。「こりゃ、俺の本当の気持ちではない」と気付くべきだ。
「しかし、現実は違うなあ。ははあ、肉体なり、心なりから来る反射刺激が俺本来の霊魂と心の働きを妨げて跋扈している」
と気付くべきである。
これを、インド仏教では「悪魔のささやき」という。これが「現象の背後には必ず実在あり」の考え方だ。
この考え方がひょいと心に浮かんだらしめたものだ。
たとえ心の中に闇を作るものが発生しても、時間の短い停電に会ったようにすぐに暗闇から解放され、 新しい力がその積極的な心から働きだしてくれる。

これが宇宙に存在する尊厳おかすべからざる絶対真理である。この点をはっきりと悟らなければならない。
これをはっきり悟れば、人生は完全にならずにいられないという奇跡に似て、奇跡でないことが起こる。
消極的な心が発生したらすぐに同調するな、これは俺の本当の心ではない。そんなものに俺の心を占有させることは許せない。
自分の心に対して厳格でなければならない。しかし、習性は第二の天性というように慣れる必要がある。
慣れるまではうまくいかない時もあろうが、しばしばこの様な処置を心がけていると、慣れるに従って、積極的な思考のみで生きれるようになる。
段々真理の中で生きれるようになる。
自分の心が正当な状態に成長することで、心それ自体が私達を積極的な世界に生かしてくれる。
煙の消えるように消極的な思考が無くなった人生に生きることが出来るようになる。
真理の中で生きなければならない。決して真理の外で生きないと決意しなければならない。
そういう気持ちになって生きることこそ、本当に気高い気分で生きることになる。
気高い気分で生きる時と、そうでないときの違いはどんなものか判るだろう。
万物の霊長である人間が人間らしく生きることが難しいはずはない。それを難しいとあなた方は思っている。
そうでない生き方をやさしい、当然だと思っているから、折角人間に生まれながら、人間らしい本当に尊く、幸せな生き方が出来ない。
「現象の背後には必ず実在あり」、この真理があるから、私はどんなことがあっても動転することがない。
それは私一人でないからだ、私は宇宙霊と共にある。これを忘れたらたった一人になってしまう。
「不孤」。宇宙霊と共にあるから何があっても怖ろしくない。
―――――――「自己本来内省の誦句」――――――
誦句の説明
・ 実在とは、いつまで経っても無くならない永久不変、この世に一つしかない、何時如何なる場合も変わらない存在を言う。
何時か消えるものを存在という。
・ 先天の一気:この世が出来る最初にあった気でこれが宇宙霊である。
・ 悟ると同時に信念しなければならない。
・ 宇宙霊と一体となった人生を生きなければならない。自分の人生をリードするのは自分であることを忘れてはいけない。
 


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19.価値ある生き方(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
実際生活を送る上でもっとより良く、値高く生きたいと思うのが人間として当然考える理知的な考えだ。
一方、人生楽しく生きなけりゃ嘘だ。所詮、金だ享楽だと思うのは感情的生き方だ。
例えば信仰ということをとっても、理知的に信仰する人と感情的に信仰する人がいる。
実際は2つの態度を調和させたときに理想的な生き方が出来るのだが理知的な人は感情を無視し、感情的な人は理知的なことを考えない。
理知的なものと本能的なものを程良く調和させてこそ本当に価値高く生きることが出来る。
残念ながら通常の人間の生活はこの両端の間で煩悶して生きている。
あっちに行ったり、こっちに行ったり、バラバラのでたらめな生き方、こんがらがった生き方をしている。
それは人間の生きるイデオロギーが確立されていないからだ。理知と感情が統一されていない。
人間がこの世に生きる上で一番大切なことが判っていないからだ。それは、一言でいえば「生活をしんみりと味わう」という態度だ。
生活を味わうということは生活そのものをよく噛みしめてその生活の中にある情味を味わうことである。
こんなせちがらい、せわしい世の中で、そんな悠長なことは無理な注文だ、という人がいる。それは世の中を見る見方が非常に狭いからだ。
静かに考えてみたまえ。生活の範囲はきわめて広い、注意して見ると、素晴らしい織物のような人生だ。
ごく単純な人生に見える人生でも、その人がその一瞬、一瞬、目の前の些事に感動を感じ、喜びを発見し、情味を味わって生きることが出来るのだ。
たとえ一椀の麦飯を頂くときでも、感謝の気持ちで頂くとき深い喜びとスイートな情味が湧きだしてくる。
現代人はこれを味わおうとせずただつらい、悲しいという感情ばかり持ち込んでいないかい。
よほど刺激的なことを持ち込まない限り情味を味わえない生活をしている。
実際はそこらじゅうにあるのだ。楽しいこと、面白いことがらのみの中に生活の情味があるのではない。苦しい中、貧しい中にもあるのだ。
否、考え様によるとむしろ富貴な人は本当の情味を味わえないのではないか。
人生を意義あらしめるもの、楽しめるもので人を幸せにするのが情味である。
嫌いな人を少なくして、好きな人を増やしなさい。一番嫌いな人は自分なのだから、その自分を好きになりなさい。
自分が嫌いなんて考えたことないかい、一番嫌っているから自分に不平を言っているのだ。
人生至る所に情味ありだ。
人生にあくせくしている奴の多いとき、こんな真理を知ることが出来て幸せだなあ~と思えば、フーっと情味が湧いてくるだろう。
嘘でもいいから感謝と満足に振り替えろ。
生活の中に情味を見つけるコツを会得し、習慣化すれば最初に言った理知的な人生の価値高い生き方を破滅的な本能に走ることなしに 情味にひたりつつ生きることが可能になる。
人間の生き方の本願をここに置きなさい。
主観の精神的生活の中に人生の幸福が存在しているのだ。
人生は決してWILL BEでなくTO BEで行け。
まずは正しく、厳正に生きよう。
己の完成、幸せだけが終結ではない。自分一人そうなろうと思ってはいけない。
それはゴールではない。本当のゴールは、お互いに自制し、譲り合い、愛し合い、豊かになり、導き合って、より良くなって、 永久にその状態が続くようにすること。
そうして初めて幸福な生活を味わえる。これ以外に天風教義のターミナルはない。
自分だけが満足する世界を求めてはいけない。
他人の為、世のためにに努力をして下さい。
―――――旧誦句集「値ある生き方への誦句」参考―――――


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20.勇気の誦句(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
恐怖というものは恐怖した刹那にその時のことが永久に忘れられない程、観念が集中する。
観念が集中する、その観念の集中の程度に応じてプラスであれマイナスであれその生命に影響を及ぼすことは諸君も知っている通りだ。
それほど大切なのに、何でも恐怖の方面から考える人が多い。
哲学者のベーコンは「人の多く怖れるところのものはいつか必ずその人に襲い来る」と言っている。
あれこれとおっかながる奴には、おっかながら無い奴より、余計早くそのおっかながる事が起こるんだよ。
観念が集中した事柄は刹那にその事が現実化する。恐怖観念は感度の良いフィルムのようにパッと観念に焼き付けられる。
少しでも恐怖心が出ると人生は少しも楽しくなくなる。恐怖観念を心に作らない習慣を付けなければいけない。
消極的な生活をしているとビクビクと恐怖しなくてもいいことでもビクビクするような生き方をすることになる。
諸君は天風会にはいるまでは自分は健康とか良い運命が与えられないように思っていなかったかい。
「危ないよ」と注意されるより「危なくないよ」と言われた方がいいだろう。
健康や運命に対してマイナスな方から考える人にまともな人生が来るはずがない。それには、勇気が必要だ。
勇気が無いというのは宇宙霊と自分との関係が強く信じられていないからだ。
宇宙霊との関係を考えないから孤独に感じるのだ。君たちに書いて上げる扇子に「不孤」と書いているだろう。
宇宙の根本主体と自分が強くつながっていることを信じられたら、勇気凛々たる気持ちになれる。
勇気を練り上げるには観念要素の更改、積極観念の養成、神経反射の調節が大切なことだが更に平素勇気ある人間と交わることが大切だ。
真理以外に怖れるものはないのだ。それをはっきり自覚して勇気凛々たる態度で生きなければならない。
人間が人間らしく生きるには宇宙の根本主体のエネルギーを十分に受け取って生きることである。
自分に少しでも勇気がないなあと感じたら観念要素の更改、積極観念の養成、神経反射の調節の3つをしっかり行って 常に勇気凛々たる人生を生きるようにしなければならない。
―――――――勇気の誦句―――――

21.新年によせて(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
昭和41年新年;先生91歳 京都天風閣にて
新年明けましておめでとう。皆さんは恬淡明朗溌剌とした元気に満ちた天風精神で新年を迎えられたことと思います。
新年に際し、何か私の言葉が欲しいとのことで、ここに録音をするわけだが、言うまでもなく、 新年も年末もなく一貫して必要な教義を教えられているので、特に新年だからといって特別に言うことは何もない。
何時も言っていることを改めて申し上げる。
「忘れじと思う心は忘れけり、忘れて後は忘れざりけり」という言葉があるが、全ての刹那、教えの通りになってなけりやいけない。
人生真理に順応した生き方になってなければいけない。
こういう場合はこうしなけりゃいけないなんて一々考えているようではいけない。
それには日常の修行の実行に際して情熱の炎を燃やしてかからなければならない。
単に儀式的に、習慣的にやったのでは何にもならない。
朝の体操にしてもいかにもスマートにやっている人がいるが型にはまっていてもそこに燃えるような情熱がなければならない。
そうでなければ、技としてはどんなに進んでもこれでは効果はない。
いわゆる尊さに慣れてしまって魂が抜けている。これが一番注意しなければいけない。
不運や不健康に会うと、何か自分には業のようなものがあってそうなっていると思っている人がいるがそうではない。
実行しているその仕方に情熱の炎が消えかかっているからだ。
いくら言ってもいい足りないぐらい大事なことなのだ。たった今入会したぐらいのつもりで真剣にやるのがいいのだ。
十牛の図の何番目の位置にあるか反省することだ。
実際20年のベテランでも十牛の図の3番目にあったことに気付いて冷や汗をかいたという話がある。
自分ではもうすっかり教えの通りに生きていると思っていたがと後悔したというが、後悔しただけでは駄目だ。
20年でもこうなんだから、新しい人は尚更だ。
「日々に新たにして、日々に新たなり」という言葉があるが、たった今悟ったといった気持ちで情熱の炎を持って実行するならば、
毎日実行しても少しも飽きないし惰性的にならない。
同じ誦句を言うのでも門前の小僧のように言ってはいけない。
情熱の炎を燃やし、「力だ、勇気だ、信念だ」という時に力、勇気、信念そのものにならなければ駄目だ。
情熱を持ってやるから,やる度にその喜びを噛みしめることが出来毎日実行することが出来る。
井上さんがよく、天風教義の一番の実行者は私だと言われるが私もそうだと思う。
私は、天風教義の実行者としては誰にも負けない。生きている限り一日といえども休むことは許されない。
時として起床出来ないときは床の中で出来る行修を行う。
惰性的に何となく生きては駄目だ。人間の感受性はだんだん習慣的に慣れてしまう。
それを常にシビアに保つためには日々に新たに、日々に新たな心がけで刻々の瞬間を過ごすようにしなければいけない。
今までのように、この教えから離れて惰性的に生きてはいけない。これ以外に、人間として尊く、強く、生きる方法はない。
折角の教えを聞いても、そのときは納得しても、さっぱり行動しない者もいる。
諸君はそうしなければ生きていけないんだということを考えないんだなあ。
私は諸君に、時によってはこうあるべきだが、時によってはこうでなくてもいいよなって言ったことは一度もない。
教えを生活から離してしまうからいけない。
「ずっと、そんな事しなけりゃいけないんですか」などと聞く奴が居る。
「しなければいけない」と断言する。一日の内に、何時間か死んでいる時間があるのならともかく、
ずっと生きているのなら、一瞬も見失っては絶対いけない。
生きるというのはそういう事なのだ。もう、少しぐらい今は休もうとか、この問題は少し目をつぶってなどという例外は一つもない。
「日々新たにして、日々是新なり」、新年に限らず、もう一瞬一瞬に、初めてその真理に気付かされた時の感激を以て 真理に即した生き方をする事を祈念する。
およそ生きているものは全て、その与えられた摂理に従って生きなければその生命を全うすることは出来ない。
新幹線はあのレールの上に置くから200kmのスピードが出せるのであって、高速道路の上に置いてもその能力を発揮する事はできない。
人間として、あるべき心の持ち方、身体の処し方、日常のあらゆる瞬間に正しい処し方がある。
これを踏み外して、なんぞ生きがいのある人生を送ることが出来ようか。新幹線をレールの上に置かずに道路の上に置いたようなものだ。
これだけ言っているのに、今年不運や不健康に見まわれたらそれはこの教えを忘れたからだと反省してすぐにこの道に戻るようにしなさい。
改めて、この講義を聴く前より元気になって生きることを心に期してこの講演を終わります。
    


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22.誠、中村天風の命を救ったもの(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
軍事探偵として、支那の地で活動をしていた。
ある時、支那の荒涼たる大地にコザック兵の死骸を見つけた。
「戦争とはいえ、こんな若い兵士が気の毒なことだ。彼にだって父や母がある、妻も子もあるかも知れない。」
たとえ敵とはいえ野ざらしになっているその姿を見て気の毒に思い、部下に言いつけて埋葬をした。
そうしながら、今はこうして生きている自分も何時この兵隊のようになるか判らないと思うと、 早く戦争を終わらせなきゃならん、と真から思うようになった。
その後は、自分の軍事探偵としての仕事の目的を戦争終結に絞った。
私は軍事探偵として勲章を貰っているがその勲章は戦争のある局面で、そのままでは当然起こる両軍の衝突を 自分に出来るあらゆる諜報活動を駆使して何とかそうならずに済ませることに成功した結果への褒章なのである。
結局は「誠」である。
私が銃殺刑になる直前に救われた話は諸君はよく話しているから知っているがどうして救われるようなことになったかを話す。
というのも、私が救われたのは「誠」という心の表れであるからだ。
私を救うために何人もの大人を導いてくれたのは13歳の娘である。
何故、その娘が私を救ってくれたのか。
当時の支那は戦場である。
戦争下という状況は人間の本能をむき出しにしてはばからないどころかそれをあおるような風潮さえ生む。
そして、当時の支那もそうだった。
女性を強奪して強姦するといったことになんの罪悪感も感じない連中ばかりだった。
ある時、私が彼らのために役立つ働きをしたとき、連中が喜んで「贈り物がありますからどうぞ」といって 大きな箱をおいて部屋を出ていった。
なんだろうと中を開けると中に娘が二人ぐったりして横たわっていた。
たずねると13の娘と18の腰元で、彼らに拉致されて箱に入れられてしまったというのだ。
まだ、女の体にもなっていないこんな年端のいかない娘を、連中は平気で強姦しそのあげくに売り飛ばして しまうのかと思うととても気の毒になった。
そこで、連中に話をして「金を出すからこの二人を譲ってくれ」と頼むと「お金を頂けるのであればどうぞどうぞ」と
助け出すことは出来た。
外へ連れ出して、「さあ、こっから帰れ」と言うと「此処はどこか判らないし、どう帰っていいかも判らない」という、
話を聞けば、どうやら日本でいう鎮守の森のような所にいたところを拉致されていきなり箱に入れられたらしい。
そこで、もう一度屋敷の中に入り、二人の娘を拐かした奴を呼び、ビクビクでてきた男に 「この二人を拉致した所へ案内しろ」と言いつけ馬車を用意させた。
それから、夜の道を馬車に揺られること数時間、夜の白みかける頃に「つきました、此処です」と件の男が言う。
二人の娘を起こして「ここからなら帰れるか」と言うと、安心したように頷いた。
馬車から降ろし、帰るように促すと手を合わせて私を見ながらその目からは涙がとめどなく流れている。
「判ったから、早くお父さん、お母さんの所へ帰りなさい」と言うと 「お父さんもお母さんもいない、今はおじいさんと一緒に暮らしている」という。
とにかく帰そうとすると、名前を教えてくれと言う。「名前なんが言っても仕方ない、日本人だ」とだけ言った。
何か形見のものをくれというので、そんな時に何も持っている物は無いから仕方なくハンカチを渡し、 私達は元の場所へと引き返した。
振り替えると、何時までも何時までもこちらの姿が見えなくなるまで、今渡したばかりのハンカチを 力一杯振って見送ってくれているんだ。
それから、2ヶ月ほど経った時にコザック兵に捕まってしまった。
そんな場合戦場には、捕虜を監禁する牢屋などというものはないから、その近辺の大きな農家のみそ蔵のような所へ 幽閉されるのが一般的なやり方だった。
すると、そこの屋敷の者と思われる男が「お前が日本人と知ってこの屋敷の主人が呼んでいるからついて来い」という。
その男について何重にも土累を張り巡らした屋敷の中へと進んで行って部屋に通された。
そこには一人の老人がいて誰かを呼んだ。後で判ったことだが呼んだのは娘の名前だった。
日本語ではないその呼び名は残念ながら憶えられなかった。
名前も知らないその娘は呼ばれてその部屋に入り私を見るなり「この人」と言って私に抱きついてきた。
その娘のおじいさんである老人は「日本人なら娘の恩人と同じ国の人なので助けたいとは思ったが、 まさかご本人とは」と言った。
しかし、そこへロシア兵が私を捜しに部屋へ入ってきて、私は連行された。
さて、処刑の日の話は何度も諸君に話したとおりである。
処刑の宣告を受け刑場へ連れて行かれた。
ついに此処まで来たか、と思い3発の銃声を将に聞かんとする時の事だ。
それまでは「目隠しなんかいらない、俺は俺の身体のどこに玉が当たるのかをしっかり見て死ぬのだ」と 口にしていたが、兵士が銃を構えた姿を見たその瞬間、目をつぶってしまった。
その時に、とても大きな音がした。
「死ぬ時はこんな大きな音がするものか」と思った。
しかし、死んでいない。
自分がくくられている棒ごと吹き飛ばされてしまった事に気がついた。
今まで自分の刑を見守っていた兵士達はみんなこっぱ微塵に吹き飛ばされていた。
何故か。
あの娘がクリケットの運動場であの日本人が処刑されるのを何とか助けたいと大勢の大人を連れて助けに来てくれたのだ。
武器はタドンの様な手榴弾が2つだけである。
彼らの一人がその手榴弾を投げたところ、見事に命中して助けられたわけだ。
途中まで棒にゆわいつけられたまま逃げたのは知っているね。
ある程度の距離逃げて、ふと気がつくと娘の姿がないのに気がついた。
助けにくる途中で大人達が娘に残りの一つの手榴弾を手渡し自分達が戻ってこない時は、 失敗した時だからそれを投げるように話していたらしい。
自分達が戻ってこないので娘は言われたとおりに残りの一発を投げた。
しかし、娘の力だ、丘の上まで届かずに断崖の岩に命中し岩の固まりが落ちてきて娘はその下敷きになって死んだんだ。
俺を助けようとして死んだんだ。
その顔を見た時(先生のお声は涙で良く聞き取れないが)とても可愛い顔なんだ。
苦しそうな顔なんかしていないんだ。
しかも、俺が渡したハンカチを胸の所に握っているんだ。
わかるか。
子供だよ。俺に助けられたその真心を子供心に知って、今度は娘の「誠」がこの私を救ってくれたのだ。


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23.正しい活き方の自覚これからあなた方の耳に伝わってくることは天風哲学の真髄でつまり人生を現実に生きるのに何よりも必要な信念を確立する為に無くてならない悟りばかりであります。
およそこの現実というものは現実によってのみ解決し得るものなので、しかも現実の力というものは宇宙真理の理解を徹底的に悟らない限りは発現してこないんであります。
生命の力は物質的な方面からこれを作ることは無駄な計画でどこまで行っても精神力を強めるという精神的な努力でなけりゃだでだということはもう判った。
人生を本当に有意義に生きる為にはどんな準備を毎日の生活に必要とするかということが 極めて大切な事柄なのであります。何事を完成せしめるにも一番必要とすることはこの準備を正しくするということなんだがどうもとかく多くの人々はこの準備を軽率にして完成のみを急ぐという傾向があるために人生をもっともっと本当いうと幸福な状態で生きられる場合でもこの準備が軽率であるばかりに完全な幸福という完成を見ることが出来ないで毎日をあたらただ大きな欲望や期待だけでもって心の中を焦りと落ち着かない欲求不満な状態で生きている人が多い。
正しき成就は正しき実行の実りで、正しき実行というのは正しき準備の花なんだ。
何事に対しても成就を完全にしたかったら実行を正しくしなきゃいけないんだ。実行するには準備のない実行は出来ないんだから、あてのない所に急ぎ足で行くことは出来ないんと同じであります。
そこでそれでは我々人間が本当に意義のある人生に現実に生きて行くために必要とする準備とはどんなことか、毎日準備する準備とはどんなことかというと毎朝夜の眠りから目覚めたならば出来るだけ早くその日の生活の全体を先ず自分の心の中に握っちゃまうんですよ、キャッチしちまうんだよ。簡単なことなんだがこれがあなた方に毎日毎日行われているかと自分で省みてごらん。何か特別な用事がある場合は別として普段何にも用事がないときはポーっとしてポーっと一日を過ごしている場合がないかい。
もっと詳しく言うと今日一日を火急的真理に順応して生きていこうということを先ず、第一番に考えなけりゃいけないんだよ。ただ生きられるから生きていこうという気持ちが一番いけないんだよ。真理に順応して生きていこう!と。
即ちあくまでどんな場合があろうと健康的にも運命的にもどんな変化があろうと徹底的に積極的な精神状態でこれに応接して生きていくっていうことが真理に順応した生き方だということはもう一言にして答えられるね。そこで準備に一番必要なことはここなんだよ。今日一日を徹底的に積極的な精神で、詳しくいえばどんな場合があろうと、尊さを汚さない、強さを弱めない、そして正しさと清らかさを失わないぞと、この心に決定的な宣言を与えて生きなきゃいけないんだ、それが第一準備なんだ。
準備というのは結局スタートに対する気構えだなあ、何をすんのでもスタートがしっかりしていない場合、いわんやましてスタートに際してからに何の目論見もなく何のそこに計画されたものが無かったならばさっきも言った通りあてのない所に駆け出したのと同じなんだよ。だから人生は原則の外に一歩も出ていないんだからこの原則の中にしっかり自分の人生を生かしていくことを忘れちゃ駄目だ、何でもない時はとかく何でもないっていう理由でもう何の考えもなくさっき言った如くポーっとしてポーっと生きちまうんだ。自分の自覚の中に今日は何にも用はないだろうと思っているかも知れないが人生というものはいつなんどきどんな用事が起こるか判らないんだ。ねえ!。ビジネスの上に変化が起こらなくても健康の上に変化が起こるかも知れない。何にもなく、一年365日無事平穏な日ばかり続くもんか。その時にその事柄に対して心が動揺しないことを第一番に計画することが日々是好日という現実を作り上げる先決的な準備なんだ。これがつまり要するにその日の生き方を如何に生くべきかを決定する第一準備。
かりにも計画し目論んだ所のものを半分も実行しないでもって一日を終わっちまうっていうのはどういうわけだ。
そこに又一つの原因、理由があるんだけどこれが普通の場合悟れないんですよ。原因、理由っていうのは何だっていうとね、多くの人は計画し目論んだ準備を相当入念にやっていながらこれを実行しようとする時唯単にねフワーっとした気持ちそれを実行しようとする。哲学的にいうと感情的な支配でそれを実行しようとするからなんだ、気が付いていませんよ、それに。感情的支配っていうのが判らないから、どんなんか。感情的支配で物事を行おうとするとそれが実行不可能になったり、あるいは実行不完全になったりするのが当然なんだ。
一切の準備や計画を完全に実行するには先ず第一番に感情でこれを支配しちゃいけないんだ。一切の感情を超越した霊魂に固有する意志の力でこれを実行しなきゃいけないんだ。意志の力が如何に尊いものであるかは研修科の「心とは」という時の説明を考えてご覧。そうだろう。機械を動かすときに原動力が必要だね。人間の意志の力っていうものは規則正しく生命の一切を動かす原動力。人生生活に一番根本的に大事なもんだ。ところが感情の支配でやるっていうと規則正しくエネルギーをリズミカルに動かす機械的な原動力でなく手で回しているのと同じ事になっちゃう。そうすると気乗りのする時はバカにうまく回すが気乗りのしない時は回し方に不完全な不調和がくる。回転の上にアンバランスがくるというこういう結果と同じなんだ。あの研修科の「心とは」という講演の中でも言ったね、現代の意志の力というものに対する正しい理解がない。概ね多くの人の一番いけないことは自分はどうも意志の力が弱い人間であるという風に自分を低く評価していることだ。ところが意志の力っていうものは人によって弱いとか強いとかっていう区別があるんじゃないんだ。霊魂がある限りは霊魂固有の性能なんだから非常に力強いんだ。意志の力が弱いように感ずるのは力強く出ようとする意志の力を、丁度そうだ、非常に水圧のある滝の水を小さな茶碗に汲んでからに、ポタポタそれを落とすようなことしちまうから、なんだこの滝の水勢いがあるなっていったってちっとも勢いありゃしないじゃないかって、勢いの抜いたものだけを見るからいけないんだ。「心とは」という研修科を聞いた人は今さらながら思い出すだろう、意志の力は出すようにして出しさえすりゃグングン出てくる。どうすりゃ出てくるっていうと雑念妄念の無い心に出て来るんだ。だから何をおいても先ず一番に観念要素の更改、神経反射の調節、積極観念の養成をすると同時に、あの安定打坐法こそは将に意志の力を出すのに何よりも一番に必要な秘訣だっていうことを私は説いてきたんだから。
意志の力の出し方が間違っているのだ。
雑念妄念の力が意志の力の出ることを弱めているのだ。
心が強い意志の力を発現できる状態でないことを知らなければならない。
心の中が整理整頓されていないと出てきようにも出てこれないのだ。
だから常に心の態度を「尊く、清く、正しく、強く」持てと言っているのはここにある。
たとえ、今この瞬間大丈夫でも常に変化するのが人生だ。
何時心の座敷にごみが入り込んでくるか判らない。
常に心の中をきれいに整理する必要があるのはこのためだ。
日常の刹那刹那に応用することの出来る安定打座法は価値のある尊い方法なのだ。
何も瞑目端座している時だけが安定打座をする時ではない。
その日の生き方を選ぶのだ。理念があって設計ができるのだ。
理念を吟味しなければ行けない。自分は力が無いなんて思ってはいけない。
安定打坐をポーッとしてはいけない。
畑は種を選べない。人は自分の人生に咲かす種を選ぶことが出来るのだ。
自分にとって素晴らしい種を選ばなければならない。
良い種を選ばなければならない。
真実の人になりたければどんな事があっても尊く、清く、正しく、強く生きなければならない。
そして、人生の花園に良き種をまくのだ。真理はあくまでも絶対で荘厳なのだから。
意志の力は磁石の力と同様に現実を同化させる力がある。
意志渙発を妨げるチリ、アカを取る安定打坐を何時も応用しなければならない。
雑念妄念が出なけりゃ意志の力が出て来るんだ。
幸福とか幸運というのはこうした意志の力を働かせて人生を善導したところにある。
雑念妄念のある人はこうした意志の力を発現せしめずに生きるという
勿体ない生き方をしている人だ。
諸君はいい方法を知っているのだから意志の力を発現して生きなければいけない。
朝、顔を洗ったら心もきれいにして一日を始めなけりゃ。
朝、呼吸法や統一体操を形式的にやっただけではいけない。
自分の人生の一切の主導者として生きるスタートとして 心を作るための行と意識してやらなければいけない。
日曜行修だってそうだよ。肉体を作るためと思ってやってはいけない。
それでは第二義的なものだ、。精神を先ず作ることだ。そうすれば肉体は出来てくる。
どこまでも精神、精神、精神だ。


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24 力、信念、勇気
お互いの生命は生き甲斐のある人生に生きなければいけない。そのための悟りを開く必要がある。
悟りというと何か難しいことのように考える人がいるが判らなければならないことを判るのが悟りである。
今日はお互いの命に与えられている力とその法則を話す。
真理に接するに第一に必要なことは雑念妄念を心に持たないことである。
心にその様な気持ちがあるとレンズに曇りがあるのと同じである。それでは安定打坐をしっかりやろう。
――――――――――――ブザー――――――――――――――
正当な自己認証、即ち自分の命に与えられた力というものを程度高く考えなければならない。
何故なら、その人のその人の力に対する考え方がその人の人生に大きく影響するからだ。
心で思ったり考えたりすることが直接人生を良くも悪くもする事を知らずに生きている人が多い。
こんな重大なことを知らずにその日その日を唯何となく生きている。
こうやって生きていりゃ「何とかなるだろう」と生きている。
こんなあてのない生き方をしているのが現代の多くの人の姿だ。
生まれながら与えられている、心の思い方が直接自分の人生を良くも悪くもするという 重大な消息を知らずに生きているからだ。
それも、文化の未発達な時代ならともかく、人工衛星が飛び回る今日において、
自分自身の命についている心の働きを知らずに生きるという妙な現象が現実の姿なのである。
心の思い方の善し悪しで自分の人生が良くなったり悪くなったりするなんて そんなバカなことがあるもんかなんて言う人がいる。
「 カニはその甲羅に合わせて穴を掘る」というが、その人達はまさにその様な人間だ。
科学的に考えてみよう。心はお互いの命を生かす力の受け入れ口である。
宇宙エネルギーを受け入れる受け入れ口なのだ。東洋哲学では生気、とか霊気という。
インドではプラナという。一つの氣体である。これが宇宙エネルギーの根元である。
天風哲学では宇宙霊という。神と考えても良いし、如来と考えても良い。
我々の命を完全に生かすにはこの宇宙エネルギーを完全に受け入れることが必要だ。
心の思い方、考え方、即ち心の態度が宇宙エネルギーの受け入れ方に影響する。
受け入れる量に影響するのだ。これが判っていないから不幸な人が多いのだ。
それにはこの受け入れ方の準備をきちんとする必要がある。
自分の人生を価値高く生きるには、自分に与えられている命の力を程度高く引き上げて考えなければいけない。
「現在は確かに俺は理解できていないが、確かに俺にも強い力がある」と考えなければいけない。
自惚れろと言うのではない。
「自分の命には運命や健康を建て直す力がある」と信念出来ないまでも思わなきゃいけない。
考えなきゃいけない。それが人生という宝の倉を開く鍵のようなものだ。
心の行う思考というものは全て命の本質である霊魂を通じて宇宙の本質とつながっているのだ。
大抵の人はこの厳粛なつながりを知らない。
心の思い方、考え方は、鏡に物の映るようにはっきりと宇宙の大元とつながっているのだ。
万物を創り出した大元はそこに映ったものを直ちに現実にする傾向がある。
心が積極であれば積極な様に、映ったままに現実に現れてくる。
だからどんな場合であっても消極的であってはいけない。
心の思い方の程度に応じて良くも悪くもなるということが判ったろう。
恐ろしいほど連動しているのだ、電線みたいなものだ。電線が細けりゃ流れる電流は少ない。
人間の命は造物主の力で生きているのだ。その造物主が最高のものとして創ったのが人間だ。
そう簡単に病になるものではない。私がこうはっきり断言出来る戦争中の経験がある。
野戦病院の経験だが、気の弱い奴は死なないような病でもあっさり死ぬし、 気の強い奴は死ぬ病でも持ち直すといった光景を幾度も見た。
そんな経験があるのだ。だから理論研究で言っているのではない。
人生を価値高く生きようと思ったら心の思い方考え方を程度を高めて生きなければならない。
それには「力の誦句」である。この誦句を唱えることは宇宙エネルギーを完全に受け入れる用意をしたことになる。
出来るだけ多く口ずさむ事である。
安定打坐をしながらすると自分の方から宇宙エネルギーの中に飛び込んでいくような結果になる。
万物の霊長として生まれた歓びをしみじみと味わえる様になる。
たとえ今、健康や運命が思わしくなくともそんなものに関わり合いになる必要はない。
生きている間はこの与えられている力を充分に使いこなさないといけない。
たとえ悪いことが起こってもスムースに解決する力が与えられている。
あえて努力しなくても体の中から沸き出してくるのだ。
宇宙エネルギーから受け取っているのだから。
生きている毎日が本当に楽しい毎日に生きることになるんだから。
―――――――力の誦句――――――――――――
折りある毎にこの誦句を口づさむんだ。特に病や運命に問題がある人はこの誦句を出来るだけ多く口づさむこと。
心の態度を積極化させないと本当の幸福は味わえない。
心の態度が積極的でないと28通りの価値のない思い方、考え方で人生を生きてしまうという 価値のない生き方をしてしまう。虚心平気、事ある時も事なき時も同じ心持ちが積極心なんだよ。
世の中の多くの人は何か事あるとすぐ心がその事柄に引きづられて惨憺たる有様になってしまう。
諸君は自己認証を学んだ。限りない力に囲まれていることも理解できた。
虚心平気の心持ちの時にその力が一番多く与えられるということも教えたね。
感謝の気持ちの大切さも言葉の重要さも教えたね。これらは全て心を積極的にするための教えなのだ。
さて、今日は信念の渙発について説明する。信念の重要さについては昔から言われているね。
釈迦もキリストも言っている。信念なくして成功した人はいない。
その様に大切な信念は心を掃除する以外に出てこないよ。
観念要素の更改を寝がけに真剣にやるんだよ。心の掃除をすれば信念が自然と出てくるのだ。
よそから持ってくるものじゃない。心の中に元々あるものが下積みになっているだけだ。
観念要素の更改を真剣にやって上の邪魔なものを掃除したら自然と出て来るんだぜ。
さあ、これだけの人間の中で何人の人間がこの事を自覚することが出来るか。
―――――――――――信念の誦句―――――――――――――
やたらと心配したり、怒ったりしているのが現代人の心だ。
その中でも一番気を付けないといけないのは恐怖だ。恐怖観念ぐらい価値のない結果を人生にもたらすものはない。
いい結果は何もない。因果律の法則である。
ものを怖れる感情が発動した時は本人は気がつかなくてもその観念は強烈に固定される。
「おっかない、おっかない」と思っていると何時かそれが現実となる。
勇気が欠けているから恐怖するのだ。
体が強いに越したことはないが心に勇気がないと、その生命は十分にその力を発揮できない。
生命を完全な状態で生かすには、その本体の霊魂を汚さないように、けがさないようにすること。
それには心をけがさないこと。そのためには積極的な態度を崩さないこと。
それを崩す最大のものは恐怖である。勇気が欠けているとすぐに恐怖する。
勇気があれば虚心平気で対応出来る。勇気がないと恐怖心や不安を簡単に感じてしまう。
勇気が満ち満ちてくると自分で考えたようになる。力が出てくるのだ。ものが恐ろしいのは勇気がないからだ。
何時も言う通り「晴れて良し、曇りても良し富士の山」である。
昔の兵法でも「勇気は常に勝利をもたらし、恐怖は常に敗北をもたらす」というのがある。
この事を判っている人がいない。どんなに恐ろしいことがあってもそれを心の中に入れなきゃ恐ろしくないだろう。
簡単なことだ。どんな場合があっても虚心平気の人が勇気のある人だというのだ。
出来るだけの努力をして勇気をつけること。その方法は観念要素の更改をしっかりやることだ
熱心さを欠いてやっていると何年やっても効果がない。
現在何事もなく平穏無事な人ほど気を付けないといけないよ。知らない内に心がだらけているからね。
そのためにも観念要素の更改を真剣にやらないといけないよ。
それと同時に大切なのは暗示だね、出来るだけ勇気のある人と交わることだよ、
日常の実践に情熱を持ってしなけりゃいけない。
自分から進んで恐ろしい思うことに積極的にぶっつかって見ることだ。
自分は勇気があるかないかぐらいは知っているだろう。
人間はありがたいな、修行をすれば必ずそれに応じた成果が出るのが人間なのだ。
本当にこの世の中に恐ろしいものなんかあるもんじゃない。本当に恐ろしいものはない。
恐ろしいと思う心があるだけだ。こう言って判らなけりゃ、勝手にしろと言うしか仕方がない。
本当に恐ろしいのは死だけだ、その時は死んでしまっているから仕方ないじゃないか。おっかないもくそもない。
―――――――――――勇気の誦句―――――――――――――――


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26. いつまでも若々しく生きよう

1.A面「いつまでも若々しく生きよう」安武先生との質疑応答形式 55分
2.B面「命の力の自己認証」昭和43年8月 京都夏期修練会真理瞑想;力の誦句 
3.B面「平素の心の持ち方、使い方」天風会創立50周年祝賀記念講演テープ
  (昭和43年11月ご自宅でテープ録音、それを会場で流したと記録がある。
「いつまでも若々しく生きよう」
物質的な方面ばかりで若さを保とうとして肝心なことを忘れている。
何をおいても精神的な態度を若々しく堅持することが肝心かなめな事である。
どうして心がそれほど、物質的な肉体に優先して大事なのか。
人生を判っているという人でも身体に対する理解に比べて心に対する理解はとても貧弱だ。
心が重大だなんて考えている人は少ない。
心と身体は別々だと考えている人が多い。人間がこうして生きていられるのは何の力によって生きていると思うか。
どういう生活機能の働きによって生きているのか。食って寝て垂れてるから生きてられというのは回答にならない。
神経系統の生活機能によって生かされていることを知らなければならない。
自律神経というのがあるがこの神経はありがたいことに意識の支配を受けずに機能している。
宇宙エネルギーと直接結びついている神経である。
しかも、生きている限り不眠不休で働いている。意識の支配は受けていないが。
意識の状態にデリケートに反応する。梅干し見ただけで口の中が酸っぱくなるだろう。好きな人を見たら顔が赤くなるだろう。
だから、病になっても一寸でも気にしては駄目だ。そんなことをするとすぐに本来の自然治癒力が弱ってしまう。
意識の状態はものを鏡に写すように間髪入れず、ストレートに自律神経に影響を与えるということを忘れてはいけない。
心が体に与える影響というのは恐ろしいというよりも凄まじいものだということを忘れてはいけない。
どの様にしてこのような事に気付いたか。私自身の自分の心の哀れな衰えを取り返そうとして一生懸命研究した。
法律を破って密航をした位だ。世界を回ったが判らなくて最後にインドへ行って修行をしてわかった。
帰国して周囲の人を見ると皆、肉体本位で生きている人ばかりでそれぞれ苦しんでいる。
何とかして上げたいと思ったが私がインドでしたような難行苦行をさせるわけにはいかん。
その様な難行苦行無しに理解させる方法を考えてみたいと思った。
きっとそんな方法があると私は思ったんだ。それには先ず、何故、難行苦行で心が作り替えられたかを考えた。
そんなことを6年間考えている内に、観念要素の更改法とか積極観念の養成法を考え出したのだ。
難行苦行をすることは、条件反射の暗示連鎖作用を応用することなんだよ。
判りやすくいうと、雨だれがいつかは岩に穴を空けるという話と同じだ。
同じ事を繰り返し繰り返し実行していると自信がついてくる。
難行苦行で自己認証が出来るのだ。病になっても忘れりゃいいんだ。忘れろっと言ってもやり方が判らないと忘れられない。
人生の一切は心の作り替えを私の教える方法で実行する以外にない。教わっただけで実行しなけりゃ身に付かない。
燃えるような情熱を持ってやらなければ駄目だ。私などクンバハカは日に何百回とやっている、諸君はどうか。

自分の人生を恵まれた命に生きたけりゃ私の教える方法を実行しなさい。

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27.入聖開悟の誦句01;自覚と悟りの違い
とかくこの真理を自覚することと悟りを開くっていうことを同じように考えている人が多い。
02;自覚と悟りの違い
西洋には「悟り」という言葉が無いんであります。自覚という言葉以外には無いんであります。それが為に自覚と悟りを混同して同じものの様に思っている。
03;「悟り」の心的状態とは
そこで単刀直入的にしからば悟りの真の意味はというと「我は今、我が心の中にこの世の全てのものを正しく悟り得る偉大なる光あるものが宿り居ることを厳かに信ずる」というこの光あるものであります。その光あるもの何だというと、自分の本当の心で物事を断定し得た時の心的状態が悟りなんだ。これは自覚じゃ無いのであります。自分の本当の心で物事を断定し得た時の心の状態。
04;「自覚」の心的状態は
自覚というのはそういうもんじゃ無いんだ。理性念でそのものの善悪邪正を判定しながら最後の自分の承認の出来る解決策を自分の心に掴んだ時の心持ちが自覚、consciousness 、大変な違いでしょ。
05:理性は真実の心ではない
理性っていうのは本当の心じゃ無いってことはもうあなた方もお判りの通り。精神生命の中の一つの心の働きに対する形容詞。本当の心というのは霊魂についている霊性意識なんだ。霊性意識と理性意識が違うことは判るね。
06;悟りは霊性心のなせる技
俗に、本心というあの名で呼ばれているものが霊性意識なんだ、つまり霊魂にくっ付いている心なんだ、だから、悟りっていうのはもう判ったろうけど真理を自覚するって事ではない。真理の自覚は理性心なんだから、悟りは霊性心だ。
07;普段思ったり考えたりする心は本心ではない
そこでその悟りなるものを実際化する本心、いわゆる人間の本当の心とはそも一体どんな心かというと普通の人が普通の時思ったり考えたりする時働かせている心じゃないんであります。普通の感覚や感情から超越した今も言った真我の本体たる霊魂という氣から発露する心でこは是将に冒すべからざる絶対的なものなんだ。そうして一般普通の場合我々が思ったり考えたりする時に使っている心は今言ったような一番高い真我から発動する心じゃないんだ。概ね多くの場合は五官感覚に付随して働いている、仏教の方でいう小我の心、天風哲学でいうと動物心、理性心。動物心は本能心ですね。理性心は人間の心だと、こういう風になっているんです。動物心と人間の心と違うのは人間だけしか理性心がないからだ。本能心の方は動物の誰でもがある。犬でも猫でもバッタでもコオロギでも。従ってそれは勢い相対的なものだってことは直ぐに考えられるだろう。絶対的なものじゃないんだ。だから悟れたとか、悟りを開けたというのは、今も言う真理を自覚したという相対的なことではなく前に述べた様なもっとずっと高い絶対的な心が発動した時の心的状態をさして言うんだ。
08;相対的な心の限界
ヨーガ哲学では人間の心を9つに分けている。そして絶対的な働きを行うものをその中の2つとして残る7つのものを相対的な働きをなすものとしている。そして、相対的な心だけで人生を生きると人生は迷いと悩みと悶えで生きなけりゃならない羽目に陥ると説いているのであります。
09:何人にもある心
何れにしてもありがたいかな実に人間はこうした尊厳な心が光となってしばしば我らを無明の闇から救い出してくれるのであります。キリスト教の旧約聖書の中にもこういうのがあるね「人間自体の中には普通の人が気が付いていないけれどもそこに自分自身を本当に幸福に生かしてくれる絶対的な国がある」って。キリスト教は体の中に国があるとこう説いてあるのですがそこへいくと仏教の方は「心の中にその人間を安楽にする極楽の園ある」。その点は常識哲学でこしらえられたキリスト教よりもはるかに人間の心を今の心理学で考えると立派に心理の方面から考えている仏教の方が内容に深さの深いものを感じないわけにはいかないのであります。
10:普段思ったり考えたりしている心は本心ではない
我々が常々思ったり考えたりして使っている心というのはこの霊性から出ている本心がしょっちゅう出て我々を生かしているんじゃないんだ。それを私は気づかなかったんだ。
11:人間の命に与えられた完全なもの=本心
こういう問題を与えられた。「人間の命の中に永遠に不変にして完全で円満で具足のものがある。考えろ」それだけなんだ。人の命の中で永遠に不変で完全で円満でかつ全てが備わっているものがある。それは何だ、考えろ。数日瞑想した結果、ああこれは人間の悟りの鍵を握るいわゆる本心だなあと気付いたんであります。
12:人間の命に与えられた完全なもの=本心
人間の真髄たる魂の中には一切のものを知り又一切のものを産み出す所の力あるものが宿っているんです。それが本心なんです。そしてそれが活動して悟りを開かす働きをなすんです。
13:日常生活にもある本心の発露
偉大な発見、何も高等数学ばかりでなく何事に対しても普通の人間が考え切れない事柄を考え出すというのはこれは悟りの力だから。それはつまり本心が動的に活動した時に生ずる現象の中にそれが表れて来るんだ。
14:本心の発動と悟りの関係
悟りなるものを現実化するのが本心だとするとそれじゃどういうわけで本心が発動するとそうした微妙な現象が表現するかということなんだ。こいつは判かっときゃなきゃ駄目だよ。これを科学的に説明するから。15:見ゆる世界の背後に見えざる世界がある。
本心が発動するとどうしてそういう微妙な現象が表現するか、学問をしない人間も学問をした人間より以上の不思議な心に発見が出来る。これが悟りですね。これ、どういうわけかというと、科学的説明だからよく判るだろう、第一に我々がはっきり理解しなきゃならないことは、我々の見ゆる世界の背後に見えざるものがあってその見えざるものが制限あるものの背後に制限を作っているのであります。
16:ものができる前に既にあったからできた
我々の見ゆる世界の背後に見えざるものがある。我々が見ているものは見てるものそのものがそこにそのものの働きで存在している様に思うのは我々の五官の惑いであります。そこにあるものが出来る前にその出来るものと同様の見えないものがあったから出来たとこういうことになるんでよ。
17;その見えざるものに通じているのが人間の本心
制限あるものの背後に制限無きものがある。これが宇宙に存在する絶対真理。科学的な。これを考えてご覧。そしてその見えざるもの、制限無きものと人間の本心は霊魂を通じて連絡しているんだ。
18;その見えざるものに通じているのが人間の本心
もっと正しい考え方はその制限無きもの、見えざるものという絶対的なものが人の霊魂を通じて心に現れ出たる時を本心というのだと考えりゃ一番順当な考え方だから判っただろうなあ。
19:見えざるもの、制限無きものとは造化の妙の根本主体
さてそこでこの見えざるもの、制限無きものとは何だろう。見えざるもの、制限無きものというのはこの宇宙の法則の造り主、一切の全ての造化の妙の根本主体。
20;物理的な素粒子が全てではない。
科学者の方から言うと宗教家のいう神、仏というのはプランク定数Hだ。ありとあらゆるこの宇宙の物という物の一番の根元をなすところのプランク定数Hだと、こう科学者は言ってんであります。私はそうだとは思わない。私はもう一歩奥に我々の正しい論理思索を振り向けてみるべきなんだ。
21;素粒子を素粒子あらしめている本体が神
科学者の論定から言ったら神・仏が相対的なものになっちゃう。神・仏が物質的なものになっちゃう。プランク定数Hなんて物質なんだから。ただ、普通の物質と違うのはこれは普通の物質は形あるものが必ず変化するがこのプランク定数Hだけはプランク定数Hとしての存在は永久に形が変わらない。それから胚胎されたる動きによっていろんな森羅万象が出来る。これだけは違うけど、これを以て絶対視することは科学者として少し乱暴な断定なんであります。そういう風に神・仏を考えると神・仏が相対的になっちゃう。だから天風哲学はどう考えているっていうとこのプランク定数Hを造ったものが神・仏だと、こう言いたいんです。
22;つまり大自然である。
これを科学的に言ったらnature、日本語で言う大自然なんだ。大自然が神、仏なんだ。で大自然がこれを造ったんだプランク定数Hをね、だから法則の造り主、ありとあらゆる一切の宇宙の根本主体は大自然なんだ。
23;霊魂も大自然の一部
見えざるもの、制限無きものというのは大自然のことを言うんだよ。その大自然がある分派を造ったものを霊魂といいその霊魂の中に大自然の働きが連絡されているから従って本心発動の時は万象を見通す力があるって、こういうわけなんですよ。あなた方だって本心が出りゃとっても偉い人間になれるわけなんだ、ただ、出りゃだよ、出なきゃ何にもならない、ね!。
24;本心の発現は神との一体化を意味する
この事実の推定結論として本心が発動した時こそは宗教的に言えば神、仏と崇める絶対的なものと自己とが一体化した時だと言えるね。同じものが同じに出てきたんだもの。
25;その瞬間は神格化した人となる。
だからそういう時はその人は立派に一つの神格を造った人になるんだ。たとえ瞬間であろうと、悟りを開いた時は、その悟りを開いた時の心持ちを持つ人は神格化した人なんだ。
26;神、仏は形ではない
どんな場合であってもこの神、仏というものを形で考えちゃ駄目だよ。
27;神、仏は形ではない
正しい悟りを開こうとする者はどんな場合にも神、仏を人格視せず、神、仏を法則視しなけりゃいけないんだよ。精神的なものなんだから法則視しなきゃいけないんだ。形ないんだもの。
28;神仏は創造の力の根元
但し、ここで又言葉にとらわれないこと。法則視せよということは法則だと考えよということじゃないぜ。言葉に拘泥してからに理解を誤ると正しい悟りの本当の気持ちが判らない。天風哲学が神を法則視せよと言っているのは神、仏と称せらるるものは峻厳なる法則の鎧をつけて厳然として控えている目に見えないものなんだ。制限無く万能の力を持っている知るべからざるものであり、しかもいつまで経っても変わらない不変なもので永久的なものなんで、従って無限なもので完全なものなんだ。だから我々はそれをただ一つに比較を超越した絶対的なものだと考えりゃいいんだよ。比較を以て考えちゃ駄目だよ。もっと適切な考え方はねえ、神、仏とはあらゆるものを造る創造の力の根元。
29;神仏は創造の力の根元
神とはあらゆるものを造る創造の力の根元。
30;従って神は一切智と無差別愛と無限の愛
この考え方がいたずらに理屈の方面から神の正体を探ろうとする無駄な労苦を敢えてするよりは最も正確に神なるものを法則視して考える正しい考え方なんだ。そうしてこう考えるとその神なるものの持つところのものが一切智と無差別愛と無限の愛だという事も即座に考えられるね。これが結局仏のみちになってるんだ。
31;相対的なもので絶対的なものを見ることはできない。
その働きが現れだけは感ずるだけでもって見えないもんなんだ。どんなことしたって神を見ることは出来ない。働きは感ずることは出来ます。普通の場合に於いて人間の心的状態ではせいぜい良いところで理性心位しか活動してないんだものね。多くの人は。悪くすると理性すらも活動せしめず感情情念や動物的本能心のみで終始していることの方が一日の内多いんだろう。理性心や動物心じゃ神と称するものを見ることはおろか感ずることもできないでしょう。何故、それはねえ、理性心は由来相対的なもの、大自然いわゆる神なるものは絶対的なものなんだ。相対的なものでは絶対的なものをどうすることもできない。これが宇宙真理なんだ。判りやすく言えば無限の力を以てしないと見る能わざるものを有限の力しかないもので見ようとするのは丁度視野限界のある望遠鏡で宇宙の全体を見ようとするより先ず出来ない相談だ。だから理性心では永遠の見えざる光の中に実在する神と称するものは片鱗すらも発見することは出来ない。これ、当然なんだ。だから我々は見えないものを見ようとするよりは理性から超越して、理屈を飛び越えて神なるものを創造の根元の力なりと考える考え方を信念すりゃいい。
32;ただ信ずればよい。
大自然と称する神の命の中に無限があって不変があって建設があって完全があると信ずればそれでいいんだよ。簡単に迷いは解けるわけなんだよ、そこに。そして単に信ずるだけでなく人間がひとたび安定打坐によって心の中が本当に塵一点の曇りも無いものになるとそこにスーっと霊性心いわゆる本心なるものが渙発するんだ。すると神の中にある、大自然が包含する尊い以上のものがその時は人の命の中に入り込んでくる時なんだ。不可分の神聖なる結合が出来るんだ。united in one and all って状態になるんだ。
33;真理は神であり、神は真理である。
およそ真理とは自然の造ったものだね。自然が神だね。だから言い換えると真理は神の現れだと言えるね。従って真理とは神で、神は真理なりと言えるね。もう一編言おうか。真理というのは自然に出来たもの、そして自然というのは神だ、だから言い換えると真理は神の現れだと言える。従って真理とは神でさらに神とは真理なりと言える。判ったな。
34;この世の一切は真理によって支配されている
この世の一切は全てこの神、科学的に言えば真理によって支配され、真理によって支配されていないものは何物もない。
35;本心の発現はこの真理との一体化を意味する
人が本心を渙発するとこの本心なるものは真理の造り主たる絶対的な神なるものが人の霊魂を通じて人の心に現れ出たる時の状態をさして言うんだから、従ってこの本心はもちろん真理と共通しているわけだ。だから、この心が渙発すれば刹那その心を通じて我が生命は真理と一体化して来るのが当然な事実となる。
36;霊性意識の発現した人間
人がひとたび霊性意識を発現することが出来るようになるとしばしば霊感が発現し、霊感が発現すればその人の人格はいわゆる一段と向上して神格化し古来いうところの善知識とか、あるいは聖哲とか、あるいは哲人という大悟徹底した特殊の神懸かりの人となって、又そうなるとさらにしばしば閃光意識いわゆるフラッシュセンスという瞬間に大局までも、いわゆる宇宙の先天の一気をも認識する超意識が発動していわゆる神と称せらるる自然というものを明瞭に精神的に認識すると書いてあるね。
37;平素の心掛け=本心の渙発
とにかく我々は平素何をおいても第一番に何時でも随意随所本心が渙発出来るように自分の心をしなきゃいけないんだよ。それが今日の目的なんだから。如何に万巻の書を読み、如何に研究的にいろいろの物事を窮め尽くして、さらに又、出来るだけの努力をして信仰に帰依してもだよ、この本心の渙発法を徹底しないと所詮は正しい悟りを得られないわけなんだ。
38;平素の心掛け=本心の渙発
常にその心をして思考せしめることを努めて真善美に付いてのみであらしめる様に心がけ努力せよと、説かれた真理瞑想を思い出してご覧。人間の心の中で一番高い階級の尊厳な本心の渙発法は唯単に今言った様な心掛けを実行すりゃいいんだ。安定打坐するのも結局は自分の心が真善美以外に脱線しない様な清い心にするためだねえ。
39;平素の心掛け=本心の渙発
平素出来るだけその心をして思考せしめることが健康に対しても運命に対しても否、人事世事一切に対しても真善美以外に走らぬ様心掛けることを心掛けりゃいいんだよ。それがもう立派に安定打坐の目的に合致するんだ。
40;平素の心掛け=本心の渙発;実施上の注意点
特に言い足しておきたいことはそれだけのことが判ってもだよ、いざとなると何時しかその心が真善美以外に遠く脱線して折角の自覚もあわれ無価値にされてしまうことが往々ある。そりゃあるよ。そりゃ一体何故だろう。仮にもそうした心掛けを実行しようとする正しい理解が心の中にあるのね、それには一つ大切なことがあるんだよ。忘れられた大切なことがあるんだ。それは何かというと弁別ということなんだ。弁別というのは詳しく言うと自分が現在思い考えつつあることが真善美のいずれかに当てはまっているか否かを常に念を入れて厳かに吟味する事が弁別なんだ。内省検討だよ。
41;平素の心掛け=本心の渙発;実施上の注意点
この弁別が無いといけないんだよ。俺はもう悟れてると考える。自惚れしちまうと。仏教の教えにもあるね。「此処をしも、悟りの峰と思いなば、迷いに下る始めなりけり」「あっ、悟った、もう大丈夫だ」っと思っちゃいけないんだよ。それからまだ先に一つ山越え、2つ山越え、おてもやんじゃないけどそれでもう良いと思うとどういたしまして、雲路はるかの向こうに又山あり、又山あり。行けども行けども山、山、山。一つ悟ってこれで良いなんて思ったら大変なことだ。だから弁別心というのは今言ったこれで良いってことが無いんだから、しょっちゅう自分でわきまえていかなきゃいけない。かりそめにも悟りを開き尊い人生に正しく入らんとする者への一大至難の秘訣だよ、これが。この弁別ということが完全な注意で行われるようになると自然と心の態度も真善美から脱線する率が少なくなって従ってその当然の帰結として本心渙発の条件が立派に備わることになるわけなんだ。
42;平素の心掛け=本心の渙発
本心がひとたび渙発すれば刹那絶対と一致する。だから敢えて深く真理を理論的に究めずとても自然と人間の生命に絡まる宇宙真理はもちろん人生にてんめんする一切の真理は皆釈然として解かれる。人間の生命の強さや、偉さや、尊さや、ありとあらゆる一切私が悟れたのも結局は学問じゃないもの。私ばかりでなくあなた方だって勿論そうなるんだ。人生期せずして恵まれて豊かなものになれるように出来て入るんだ。要するに人生の一番大事なとこはこういうとこにある。これがいわゆる悟りの道、入聖開悟の悟諦なんだ。だから今日から改めて既に判り切ったことだろうけどいかなる場合であろうとも霊性意識いわゆる本心を渙発して処置することが一番尊いんだということを考えなきゃ駄目だよ。
43:平素の心掛け=本心の渙発
新鮮で正確な感受性というものは、これが無きゃ人生というものはいけないんだよ、この新鮮で正確な感受性というものは積極的な心で周囲に働きかけていく生き方でのみ作り上げられる。真善美を崩さずに自分並びに自分の周囲に働きかけていく心で生きなきゃいけない。そうすると新鮮で正確な感受性が自分の心にも出来て来るんだよ。
44;平素の心掛け=本心の渙発
真の知性とは積極的な情熱によって鼓舞されること無しには正しく発展しないのであります。つまり本心が渙発されないと本当の智というものが出てこないんです。そうするには積極的な情熱によって自分の心をしょっちゅう弁別していかなきゃいけないんだ。真善美という尊いものでピシッ、ピシッと打っていかなきゃ。
45;情熱の無い冷ややかな知性ではいけない
情熱の無い冷ややかな知性というものは唯学問をして理屈ばかりでこしらえ上げられた知性だ。詰まるところ行為の伴わない思索と同様なんだ。これを傍観者的という。
46;積極的な思索と行為の統一
真の歓びを感ずる驚嘆は、もう止めどもないうれしさを感じる驚きだ、積極的な情熱と知性の結合と同時に積極的な思索と行為の統一から生まれる。これが私自身の人生に生きる時のモットーです。
47;日常の人生に生きる時の心掛け
だからなんもかんもその一番の大根大元は日常の人生に生きる時の心掛けが真善美以外であらしめちゃいけないって事になるわけだよ。簡単なんだよ、結論は。
48;入聖開悟の悟諦
入聖開悟の悟諦
吾は今 わが心の中に、この世のすべてのもの
を正しく悟り得る、偉大なる「光り」あるものが宿り居ることを
厳かに信ずる。
この「光り」こそは この世に在る唯一つの絶対たる宇宙霊が、
わが霊魂の中に与え給いし慈悲の雫である。
この「光り」こそは わが命と宇宙霊とを、確実に結びつくる
くろがねの鎖である。と同時に
更に真理の扉を開く秘密の符丁を知る金鍵である。
そもやこの「光り」が、わが心の中に燦然として輝かば、
尊しや 宇宙霊は 世の人々のいう「神の啓示」なるものを、
量多くわれに与えたまう。
そして その能わざるなきの力を以て、迷いに眩むわれ等の心の眼を
正しく開かせたもう。
さらば 吾は今 この厳そかなる法則を、虔《つつま》しやかに行わんがために、
心の歩みを 宇宙霊に従わせて、ひたすらに真と善と美のみの上に運ばせ
よう。常に入聖指南の「弁別」の灯(ともしび)を手にして・・・・
そしてひたむきに この「光り」の発現に努めよう。
さすればこの妙なる「光り」は、やがてわが心の中に美しき悟りの花を咲かせ、
その稔りを豊かにして、わが命は 常に おののく如き歓びに満たされん。


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32.坐右箴言無念無想の境地からもう一つ上の三昧の境地に入ると、宇宙の先天の一気と合致し、霊的境地になる。
そうすると、日常に生きる刹那刹那、順動仮我境に生きれる。
磨けばダイヤモンドになる心も何もしなければ泥石と同じである。
ダイヤモンドを貰いながら、泥石を貰ったのと同じである。
だから、折角貰ったダイヤモンドなのだから、しっかり磨いてダイヤモンドにしなければならない。
天風教義の目的は、人生を第一義的な生き方に生きることである。
第一義的生き方とは、どんな場合でも、病があっても、運命に非なるものがあっても、 心の中に幸福を感じせしめて生きる生き方である。
そうでなく、悲しい事柄があるから悲しい、苦しいから苦しい、つらいからつらいと感じる生き方は、第二義的な生き方である。
天風会では、そのように第一義的に生きる生き方として積極的な生き方をするように教えている。
何時も言っているように「強く、正しく、清く」である。
現在只今の境涯を感謝しない人はますます不幸になる。
自分で、「もっと不幸になれ、もっと不幸になれ」と自分を煽っているような人だ。
逆に、それ程でもないのに、今を感謝して生活する人は、立派な天風人である。
どんなに金や地位があってもそれだけで幸福にはなれない。
人生の幸福はその人の心を切り替えない限り感じることが出来ない。
人はだれでも幸福に生きられるように平等に神様はお造りになった。
この人は幸福に、この人は不幸になんて不公平なことはしない。
にもかかわらず、そのように感じて生きている人は少ない。
同じ時代、同じ所に住みながら、それこそ同じ家庭で育っても、一方で不幸だと感じる者がおれば、 一方で幸福だと感じる人がいる。
幸福なんて、「もの」じゃない「心」なんだ。
「そんなこと言ったって、とても幸福だなんて気持ちになれない」なんて思ったら駄目だよ。
病気とか、悲運とか何か非なるものがあるのは幸いなのだよ、相手があるからね。
何もなければ、暖簾に腕押しだよ、何もかも満足していたら、こんなつまらない人生はないよ。
人間は習慣の動物だ。何にでも感謝する習慣をつけ、何事に対しても感謝出来るように生きなさい。
実際死なずに生きており、こんな人生の真理を考えることが出来ることを喜ばなければいけない。
こんな事に気づかない人はあわれだ。間違った考え方が神の無限智との冥合を妨げている。
とにかく、宇宙真理をもっと大切に考えなさい。人間が作ったものじゃないんだから。
人間自身思い方考え方が左右しているのだ。
普段からそのように習慣づける事が必要だ。
何事に対しても歓喜と感謝の世界に生きなければならない。こんな人には幸福が来る。
もし苦しい事情があってもそれに関せず、それに関わらず生きれる事を感謝するべきである。
苦しいことや、悲しい事柄を考えずに、真なること、善なること、美なること以外は考えないようにしなさい。
これさえ悟れば暗闇のトンネルから明るい陽光の中に飛び出したような気分で生きられる。
病や不運はあるべき姿ではない。あるべき姿ではないから病は治るのだ。
あるべき姿であるならば、治るはずがない。
完全で有り能う様に出来ているのがこの世界なのだ。
この世に実在するのは宇宙霊ただ一つである。
これから生み出されたのが肉体であり、心である。
自分の心の中に消極的なものが発生したら直ちに、
そのことが誤りであることに気付かなければならない。
――――坐右箴言の誦句―――――


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37.長生きをするには本日お集まりの方々は60前後の方が多いとお聞きしましたので本日の演題は「長生きをするには」ということでお話します。
人間として生まれて誰一人として早く死にたいと思う者はいない。しかし、長生きの人は少ない。それは生きられる命を完全に生かさないで、完全に生かすのを妨害する原因があることを知らないでいるからでは無いだろうか。自分の生存力を強固に確保することが大事だ。命有っての物だねだからね。現在の人びとは生活に注意を振り向ける割合に、生存に注意を振り向けていない。それが証拠に60になった人で何処も悪くない人は少ない。半病人以上の状態で生きている人が多いのは生命の生存力をどうしたら強固に出来るか考えていないからだ。たまにこんなことを研究している人がいても末梢的な事柄ばかりで根本的なことを考えていない。人間生命の生存の中枢となっているものが何であるかを考えなければいけない。医者が医学を勉強しているにもかかわらず長生きの人が少ないのは本当に学ぶべきことを学んでいないからだ。それは何かと言うと、神経系統の生活機能を完全にすることです。一番医学の中で遅れているのは神経系統の研究なのだが食うこととか着ることとか生活の抹消に関する事ばかりやかましく言う。どんなに栄養を摂っても身体に取り入れることが出来なければ全て排泄されてしまう。生きる力の中枢が完全でないと末梢的な手段だけでは末梢的な効果に終わってしまう。何を食うかで解決するならこんな簡単なことは無い。一番肝心かなめな基本的なことを忘れている。家を建てる時に大切なのは基礎であると同様に人間にとっては神経系統が生命運営の中枢になっている。神経系統の生活機能を完全にするには心の持ち方が大切だ。心をいかなる場合であっても積極的に把持しなければならない。明るく、朗らかに、生き生きと堅持しなければいけない。神経系統に直接影響するものは心なんであります。従って長生きの秘訣で一番最初に挙げたいことは、どんな場合であっても心を消極的にしてはいけないということです。心の持ち方を恬淡、溌剌、颯爽たる状態で持っていないと神経系統の生活機能が萎縮してしまう。その結果生きる力が衰えてしまうことになる。 第二に必要なことは血液とリンパを純潔にしておかなければならない。どんな風にしておくことかというと純アルカリ性でなければならない。血液が純アルカリ性であればバイ菌が体内に入ってきても冒されないで済むありがたい結果を招く。リンパが純アルカリならば強力な殺菌力がある。風邪などもひかないし、頭痛もなけりゃ肩もこらない。疲れやすい身体は血液やリンパが純潔でないからだ。多くの人が70近くになると疲れやすくなるのも血液とリンパが純潔でないからで、純潔に保てばそんな風になるものではない。それでは、血液をアルカリ性にするにはどうすればよいか。一番最初に気をつけなければならないのは食べ物である。どんなものを食べれば血液が弱アルカリ性になるかというと、蛋白質は植物性のものを摂るのが一番良い。蛋白質を動物性のものから摂ると副産物として尿酸が生成される、これが身体に良くない。膠状態の尿酸が血液の中を流れるため血管に沈殿し動脈硬化を早め血圧を上げる。私も若い時、医者から薦められて毎日大量の動物性蛋白を摂取したことがあるが40そこそこで血圧が160にもなった、早く気付いて止めたから良かったがあのままでは死んでしまっていただろう。動物性蛋白を摂取することはバイ菌の繁殖力を助けるだけだ。インドへ行った時ヨーガの部落では米を栽培しているがそれは砂糖などとの交換用で口にしない。主食は「ヒエ」である。我々はカナリアの餌にしているヒエである。それを水付けにしたものを、つまり火を加えていないものを口にすすり込むだけだ。噛めやしない。そしておかずは芋やゴンボや大根だけ。肉や魚は金輪際無い。殺す時に声を出したり、動くものは口にしないんだ。こんなんで一日1000Kcalあるかないか位しか口にしない。こんな栄養で大丈夫かと質問したら。「あの像を見ろ、あれはお前より小さいか?」「………」「わらやゴンボの根っこを食べているだけだろう、象の痩せたのを見たことあるか」と言われた。そんなわけで仕方なく出されたものを食べた。不思議なもので、本当に腹が減ってくるとまずいもうまいも無い。何でも食べられる。最初は情けない気持ちでいるが腹が減れば何でも口に入るものなら食べたくなる。しかし、果物はその辺に栽培されているので良質なものをいくらでも口にすることが出来た。そんな風にしている内に不思議なことにそれまで8年間午後になると必ず出ていた熱が出なくなリ、血痰も出なくなりとどんどん体調が良くなってきた。最初はそれが食物のせいだとは気付かなかった。気候のせいだと思っていた。そうこうしている内に身体に肉が付き出し半年間で5貫目も増えた。半年間で身体は完全に元気な状態に治ってしまった。もちろんこうなった背景には、食物だけでなく先に話した心も大いに関係するのだが私の身体の回復には食べ物が大きく関係していることに気付いた。それ以降現在でもどんな御呼ばれの席でも野菜と果物以外は口にしない。 人間が長生きをするという大きな事業は、まさに大事業であるが、「そうありたい」と思うだけで実現できるものではない。細心の注意で実行されなければならない。更に、単に長生きするだけでなく力強く生きなければならない。この中で70を越した人で2里を駈けれる人がいたら一緒に駈けましょう。これだけ私が元気でいられるのは、結局生命の生存力が強いからだ。これが弱いのは心の持ち方に問題があるか、食べ物に問題がある。皆さんも今日から一切動物性の蛋白質を摂らないようにすると半年も経たない内に身体の調子は変わってくる。ただし、3ヶ月ほどは体重が減るのは覚悟しておけ。半年経つと元へ戻る。その人間の健康を保持するのに必要な体重だけは戻ってくる。仕事等の関係でこれが実行できない人はせめて四足のものは摂るな。そして、野菜と果物を一生懸命食べるようにすると通じなどは実に快適ですぜ。一日に2度あるのが理想的なんだけどせめていっぺんはしなけりゃいけない。 次に必要なのは睡眠と運動。これらは少な過ぎても多過ぎてもいけない。それぞれ個人にとってそのレベルは違うが要するに快適に感じる程度が大切。 それから皮膚の抵抗力を強くすること。せめて冷水摩擦ぐらいはしましょう。私は毎朝10分ぐらい水風呂に入っている。寝がけにもするより一層良い。そうすれば断然風邪をひかないようになる。風邪は身体の生存力がバロメーターを低くした時の現象なんだからね。皮膚の抵抗力を強くすると風邪をひかなくなる。それが証拠に顔から風邪をひいた人はいない。 更に折りある毎に、時ある毎にたとえ一息でも二息でも深呼吸をしなさい。空気の新鮮、不新鮮よりも肺の抵抗力を強くすることが大切。深呼吸をするときは吸い込むことを先にせず、先ず肺の中を空っぽにすることを先にするんだよ。 最後に何故、心の持ち方が大切かを説明する。人間の身体は細胞で出来ているがその細胞の中にも神経がある。従って心の状態が消極的になると神経を通じてその影響が細胞に出る。このように心というものが結局人生支配の総司令官だと思えばよい。

 

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